『チェーホフ短編集』 アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ

新訳 チェーホフ短篇集

新訳 チェーホフ短篇集


チェーホフを読むのは(少なくとも「よしチェーホフを読む!」と意識して読むのは)初めてです。
13の短編が四つのテーマにまとめられています。
一作読み終えるごとに、訳者による詳しい解説が付されていて、初心者には、嬉しいガイドになっています。
たとえば、従来知られたタイトルをあえて変えた理由、日本語には訳しにくい登場人物の愛称のニュアンスなどについての解説。
作品を味わうにあたっての参考になりそうなこぼれ話や、作品に対する古今の評価などまで。
とりあげられているのは、多くはチェーホフの割とよく知られた短編、そのなかに「え、こんなのがあったのか!」と思うような変わり種も、混ざっているらしい。


『いたずら』という作品は、雑誌掲載時と改訂版とで、全く異なる結末になっているとのこと。
その二つの結末が、この本には、上下二段組で両方掲載されていて、読み比べられるようになっている。
結末だけが違うのではなくて、文体までも微妙に異なっている事を確認できる。
このような掲載の仕方こそが、もしや訳者が読者にしかけた『いたずら』ではないか、と思える。
この本の作品の選び方も訳し方も解説も、訳者の「いたずら」がちりばめられているようで、茶目っ気のある短編集、と思う。


この本から受けるチェーホフの印象は、一言でいえば「シュール」。
一言でいうのはあまりに乱暴ですね。つまり・・・


『ワーニカ』『牡蠣』『ねむい』は、極貧の子どもが出てくる。(『牡蠣』の男の子はちょっと立場が違うけれど)彼ら、虐げられ、どこにも逃げ場がないのだ。
一方、『奥さんは小犬をつれて』は、主人公をはじめとして登場人物たちは相当に裕福な暮らしをしている。でも、その暮らしが本当に豊かか、といえば「…立ち去ることも、逃げ出すこともできない。まるで閉鎖病棟か囚人部隊に入れられたみたい」と感じている。
貧乏人も金持ちもこぞって、閉塞感を抱えている。
ロシアは広いよ、空は大きいよ。でも、どの作品も息苦しく暗い、と思う。
この暗がりに光はあるのか?・・・ない。
ないから、もう居直って笑っちゃおうか、この状態を。
たとえば、『牡蠣』の最後の父親の心境。たとえば、『ロスチャイルドのバイオリン』の棺桶屋の胸算用。たとえば、『奥さんは小犬をつれて』で(読者が)捨てられた場所。
この開き直りをシュールと思うのは、暗いけれど、暗がりはなんとなくひねくれていて、ここではみじめさをあまり感じないからかもしれない。


なぜ、わたし(読者)はこんなところに捨て置かれたのかしらね。
ここから更なる旅をしなければならないのかしら。ただし旅費は自己負担でね。あるいはここに座って「なんてところにいるのかしら」と苦笑してみるとか。