『八十二歳のガールフレンド』 山田稔

八十二歳のガールフレンド

八十二歳のガールフレンド


テス・ギャラガーの『馬を愛した男』(感想)を読み終えたころ、山田稔の『テス・ギャラガーを読んでいたころ』という散文が『八十二歳のガールフレンド』に収められていることをツイッターで教えていただきました。
それが、この本『八十二歳のガールフレンド』を手に取ったきっかけです。


『テス・ギャラガーを読んでいたころ』を目指して読もうと思った本だったので、やはり、これが一番心に残ります。
『馬を愛した男』を読んだばかりだったからなおさら。
著者・山田稔さんは、パリの下宿宿で、毎日少しずつ『馬を愛した男』を読み進める。
当時の著者の暮らしをつづる文章から浮かび上がるのは、その下宿屋の侘しさや、それ以上につましく寂しい下宿の主姉妹の姿。湾岸戦争のさなかのざらざらした心持ちなど。
そこに、テス・ギャラガーの描き出す少し歪な日常の感覚が似合っている、というか、現実のなかに溶けていくような印象を持った。
エッセイでも散文でもなく、一人の思い出でもない、もちろん小説でもなくて、何かもっと別の「作品」として、わたしは文章に浸って居る。
著者が書物について語る文章は、書評とか、エッセイとかではなくて、著者自身のその時代と、読んだ書物とが、混ざり合い、溶けあっているよう。


人もそうだ。
山田稔さんの、出会った人の思い出の語り方は、読んだ本の思い出を語る時と似ている。


この本はとても静かです。
たくさんの人々の思い出が語られるけれど、どの人も、とうに亡くなっている。
大切な人の大切な思い出は、その人の履歴や、その人が自分に及ぼした大きな影響とかよりも、むしろ、ふとした一瞬の印象なのかもしれない。
「サヨナラ」という声とか、旅先から届いた二枚の葉書、再会を楽しみにしていた人との時間に混ざる肩すかしのような感覚、握手した時の相手の手の感じとか、手紙に紛れ込んでいた塵のようなものとか、バス停まで送ってくれた人の後ろ姿とか、・・・
そういうものが、ぼんやりと浮かび上がってくる。
その人を、真正面ではなくて、斜め後ろから光をあてて浮かび上がらせるような感じで、それが心に残る。
思い出って、もうここにいない人が、残された人と混ざり合うことなんじゃないだろうか。


良い読書の時間を過ごしました。