『河岸忘日抄』 堀江敏幸

河岸忘日抄 (新潮文庫)

河岸忘日抄 (新潮文庫)


「彼」は、その河岸に繋留された平底船に、仮住まいしている。
水の上、とはいえ陸に結びついて繋留している船の暮らしは、微妙に「内」と「外」との境を漂っている感じ。
彼は他との絆を切ることはない。
むしろ、少し離れたところから矯めつ眇めつしながら、他と自身(外と内)とのあり方を模索しているような感じ。


その河岸がどこなのか(どこの国の)、彼はどこから来たのか、言葉ではっきりと書かれていないけれど、それらは、すぐにわかる。
わかってみれば、「わかる」ことって、そんなに大事なことだっただろうか、と思うのです。


彼は何を考えているのだろう。何をそこまで突き詰めて考えているのだろう。
繰り返し、絡み合いながら、いくつかのキイワードが現れるけれど、ここでも、言葉は曖昧なまま。
なぜなのか。ひとつには、読者が簡単に「わかる」ことを、作者は退けているのだと思う。
「彼」は、「不可視のものを可視にするまで、心の眼で凝視しつづけること」は「窮屈」だと感じています。
「いま切実に欲しいと彼が念じているのは、闇の先を切り裂いて新しい光を浴びるような力ではなく、「ぼんやりと形にならないものを、不明瞭なまま見つづける力」なのだから」と。
わたしは、本を読みながら、こういう言葉に惹かれました。
例えば読書だって、何もかもすっきりわかる読書より、少しもやもやを残した読書の方が味わい甲斐があるような気がするではないか。
本を閉じたあとも、一部がこちらにむけて開かれたままであるように感じる。いつまでも読み終えることがないように感じるではないか。
だから、これは、ゆっくりゆっくり読むべき本。何度も繰り返し読むべき本なのだ、と思います。


「わからない(不明瞭)」「わかる(明瞭)」は、「弱さ」「強さ」という言葉に繋がる。
「(トライアスロンには)弱さが必要なの」といった人がでてきて、その言葉が印象に残っている。
「満遍なくできて、全部強くても、面白くないの、うまく言えないけど、「水準の高い弱さ」が絶対必要なのよ」
世界じゅうあちこちから、強さばかりを求める声が大きく聞こえてきて、途方にくれている昨今のことを、私は思い浮かべてしまう。
強さを求める声が、弱いものを切って捨てようとしているように思えて。
「弱さ」を肯定的に抱えてこそ「強く」いられる(あるいはおもしろい社会だ、と思える)、という方向を目指すことはできないのだろうか。


物語のなかで、「彼」が読んだ多くの書物は、大切な役割を果たしています。
プッツァーティー『K』、チェーホフスグリの実』『牡蠣』、クロフツ『樽』、ベルゴー『ボタン戦争』・・・
丁寧な紹介(?)に、わくわくするけれど、この本は、読書案内ではない。
作品たちは形を変えて繰り返し現れ、離れ、結び合い、彼の日常とも絡み合い、「不明瞭」な余地を残しながら物語を支えていく。