『自分ひとりの部屋』 ヴァージニア・ウルフ

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)


メアリー・ビートンという架空の女性を語り手にして、「女性と文学」について、著者は語る。
なぜ「女性と文学」なのか、といえば、まず、創造の業を成就するためには、精神の女性部分と男性部分の共同作業が欠かせない、という前提があるのだ。

>小説において何に価値があるかは、実人生において価値があると考えられているものとある程度は同じです。ところが、女性にとって価値あるものは、男性にとって価値があると決められてきたものとはしばしば明らかに食い違っています。自然とそうなっています。それなのに、幅を利かせているのは男性の価値観です。
(中略)
そしてこの価値観は人生から小説へと当然ながら転用されます。批評家はこう決めてかかります。これは戦争を扱っているから重要な本である、これは客間での女性の感情を扱っているから取るに足りない本である。価値の差異はあらゆるところに、(ふだん思っているより)もっとずっと微妙な形で存在しています。
男性的な価値観ばかりが幅を利かせる文学は歪だと思う。だからまず、「女性と文学」について語る必要があるのだ。


イギリスの歴史のなかで、女性作家による文学は少ないのだそうだ。16世紀以前にはひとつもない。
歴史のなかで、女性がどんな役割を当てがわれてきたのか、と考えれば、女性作家が現れなかったのはあまりに当然だった。


メアリー・ビートンは語り続ける。
シェークスピアに、もし兄と同等の才能を持った妹がいたなら、と仮定して、彼女にどんな人生がありうるか想像したり、
同時代を生きたシャーロット・ブロンテジェイン・オースティンの作品の比較から、作者たちの生き方に思いを寄せる。
その言葉の一言一言に、過去、女性たちが作家として生きることがどれほどに困難だったかを思い知らされる。
そして、それに対して語る幾人かの男性評論家の言葉の、なんという能天気なことよ、なんという想像力の欠如よ。


おもしろいね。ここに描きだされているのは、ただの文学史ではないのだから。
文学の歴史をたどりながら、書かれなかった文学や、書かれた文学が語りかけてくるものを、語り手は、様々な手がかりを頼りに、描きだして見せてくれる。
文学の流れを見ると、社会の移り変わりが見えてくる。
歴史のおもてには書かれることのない、その時代に生きた人びとの思いや心のありようが見えてくる。
文学でなければ、あらわすことのできないほんとうのことがあるのだ、と思う。

>文学は想像の産物です。科学はおそらく小石が地面に落下してくるようにして生まれるのかもしれませんが、文学はそうではありません。文学は蜘蛛の巣のように、たぶんそっと軽くではありますが、四隅でしっかりと人生につなぎ止められています。