『孤独な鳥はやさしく歌う』 田中真知

孤独な鳥はやさしくうたう

孤独な鳥はやさしくうたう



旅のエッセイ集です。
著者が世界中の各地で出会い、別れていった人たちに、わたしも名残りを惜しみ、
著者とすれ違った人を、わたしも立ち止まり、振り返って見送る。


表題の「孤独な鳥」は、旅先の行きずりのあの人この人のことのようにも思えてくるのだ。
孤独な人ばかりだった。
そして、孤独なものだけが見ることのできる、聞くことのできる、美しいものを、大切にしている人たちだった。


『孤独な鳥はやさしく歌う』で、スーダンハルツームで出会った青年が教えてくれた歌や美しい場所は、彼だけにしか聞こえない、見えないのかもしれないけれど、
誰にも言わないけれど、(その人だけの)歌を聴いている人はきっと幾人もいるんじゃないか、と思う。
そういう人たちの存在を、旅する著者のアンテナは敏感に受け止めているように思う。(でも、相手の「孤独」を邪魔したりはしない。)
それをエッセイにして、そっと並べて見せてくれているように思う。
もしかしたら、旅人である著者もまた聴いている。見ている。抱いている。
この本は、著者の抱いているものと、相手の抱いているものとが触れ合った時、共鳴して鳴る美しい音楽のようだ。


『失われた足跡』『いかれたやつ』『クマおじさん』などから、旅が人を結ぶ縁のようなものの不思議を思う。
旅慣れたひとだけが嗅ぎ分けられる同族の匂いのようなものがあるのだろうか、とも思う。
こんなに広い広い世界の片隅で、まるで糸をたぐるように、出会ってしまう人びと。
もう会えないかもしれない、どこにいるかもわからない人であるのに、すぐ傍らにいる人よりもずっと近しく懐かしく思う人。
やはり、おなじ音楽を聴いている人・・・同じ美しい場所を知っている人・・・そんな気がする。


父について書かれたエッセイのタイトルが『父はポルトガルへ行った』であることも、著者は、父の聞いていた美しい歌をきいたのだ、と思った。
(お父さんはきっとどこかのポルトガルで笑っているような気がする。)


大西洋とサハラ砂漠に挟まれたキャップ・ジュピーの岬で、飛行場主任としての孤独な日々を過ごしたサン・テグジュベリの足跡を追う『星の王子の生まれたところ』では、「砂漠が美しいのは井戸を隠しているからだ」との言葉を引きながら、このように書く。

>井戸とは、必ずしも現実の井戸ではない。それは荒れはてた砂漠を魔法にかけるもの、人間に生きるよすがをあたえ、誇りと尊厳を回復させるものだ。それがなくては、ぼくたちの存在そのものが意味を失ってしまうような、かけがえのないなにかなのだ。
この本のなかに次々現れる孤独な人々の、美しい顔、顔、顔。彼らが聞いているであろう「美しい鳥のうた」は、いったいどこから聞こえてくるのか、少しわかったような気がする。
この本に出会えてよかった。