『ジョイランド』 スティーヴン・キング


現在六〇歳の「ぼく」ことデヴィンが、二十一歳だった夏と秋とを回顧する。
そのとき、「ぼく」は大学生で、海辺の遊園地「ジョイランド」でアルバイトをしていた。
ジョイランドには幽霊が出るという噂があった。
過去、ここで殺され、遺棄された少女の幽霊を、何人もの人が見ているという。
音楽、歓声、交わされる隠語、仲間たちと過ごした素晴らしい時間、失恋の痛み、幽霊話。神秘的な体験、冒険、そして謎解き…
彼の夏は、遊園地「ジョイランド」そのもののようにも思えるのだ。


子どものころ、遊園地のわくわくには、すぐに終わってしまうがっかり感がまざっていると、感じたことを思い出す。
けれども、今、遊園地「ジョイランド」の(ちょっと後ろ暗いような)イミテーションの明るさをいいものだ、と思った。
ジョイランドが醸しだす、かすかな胡散臭さや仄暗さ、そして、客とスタッフとが共犯者のように支え合いながらの祭りには、沁みるような味がある。


ジョイランドは古いタイプの遊園地で、ディズニーランドのような施設ではない。
ジョイランドの経営者イースターブルック氏の「ディズニーの遊園地には筋書きがあって、私はそれが嫌いだ」「連中がオークランドでやっているのは楽しみの押し売りだよ」という言葉は、印象的だ。
廃れ、いずれは捨てられていくだろう「遊園地」のことを今まで私は振り返ってみたりはしなかったな、と思った。
遊園地は偽物の夢だ、と思う。それでいい。
夢には、一種のカーテンがあって、それが少しほころびかけていたり、ところどころ寸足らずだったりする。そこから外側の(現実の)ボロが少し見えていて、見えているのがいいのだろう。
カーテンに寸分のほつれも許さないような、よくできすぎた夢は、余裕がなくて苦しく感じることがあるんじゃないだろうか。


忘れそうだけれど、物語はミステリである。
長い時間をかけて解決した一つの事件に、私は、驚いたり、ほっとしたりしながら、大切な物を失ったような小さな痛みを感じる。
(でも、ミステリの結末って、きっとそういうものだ。)
……うん、失った。でも、それでもなお、物語は、色あせることなく(むしろ色彩を増して)輝いている。
光は点滅する。音楽、ダンス、歓声、さまざまな音の中を飛び回るカメラを持ったロビンフッドの娘達。そして、その向こうに、寄り添い合うように歩いている大切な人たち。無声で笑い合う若者たち。
これはみな、回想の物語。ふりかえってみる若かった日々は、そのまま「遊園地」と呼べそうだ。