『僕とおばあさんとイリコとイラリオン』 ノダル・ドゥンバゼ

僕とおばあさんとイリコとイラリオン

僕とおばあさんとイリコとイラリオン


>僕の村はグリアの中で一番美しい村だ。僕は世界じゅうの村の中でここが一番好きだ。だって、僕とおばあさんとイラリオンとイリコと犬のムラダが住んでいる村なんてほかにはどこにもないんだから。
「僕」ことズラブ少年は、おばあさんと二人暮らし。近くにそれぞれ一人で暮らしているのが、叔父のイリコとイラリオン。
おばあさんは、孫に、一週間学校を休ませて畑で働かせるため、仮病を使わせようとする。
イリコとイラリオンは互いに、ただ一人の甥を味方に引き入れつつ、相手を出し抜き、イッパイ食わせ合い、うまいことやろうとする。
それは冗談ではすまない、ほとんど犯罪ではないか、というレベルだし、その報復もまた、やっぱりひどい。
こんな大人たちのなかに子どもを置いていいのか?
しかし、当の子どもズラブは、大人と一緒に重労働もこなすが、わるさのほうも大人を出し抜く相当な悪ガキなのだ。
勉強は大嫌いだけれど、違うところが大変利発にできているので、多少(?)ひどいめにあっても、まったく同情には及ばないのである。
なんだかすごい話みたいだけれど、ぽんぽんと飛び交う憎まれ口は、互いの深い愛情の証、ということが読めばわかってくる。
いやがらせや憎まれ口の程度は、どれほど相手を信頼しているかのバロメーターみたい。
そうして、なんとも素朴で愛おしい人たちなのだ。


物語に練りこまれた人の善意への信頼、深い愛情、憧れ、懐かしさ、純情・・・
見えないはずない。感じないはずない。
でもそうしたものたちには、罵倒の言葉をざらざらと頭から浴びせかけて、とぼけた笑いに変えてしまう。
わたしは、涙を流すほどに笑いこけながら、いつのまにかほろっと温められていた。


あとがきを読んで、なぜ少年が祖母と二人暮らしをしているのか、父母のことはなぜ一言も書かれていないのか(あるいは書くことができなかったのか)知った。
舞台は第二次大戦のさなかのグルジア(当時はソヴィエト連邦
これは作者の半自伝的な物語である。
作者9歳の時に両親は(スターリン時代の粛清により)無実の罪で逮捕され、以後、祖母に養育された。
祖母は、相次ぐ子どもたちの逮捕により、本来のおおらかさを失ったそうだ。(しかし、物語を読めば、そうでもないように思える。少なくとも孫には本来の祖母がちゃんと見えているようだ)


グルジアの人々はもともと陽気な人びとなのだそうだ。
この辛い時代を持ち前のユーモアで持ちこたえたのかもしれなかった。


この物語すべてが、愛おしい。すでに私はこの物語から帰りたくなくなっている。この物語の片隅に留まりたい。
しかし、主人公も成長するのだ。物語の主人公でさえも、ここに留まることなんて許されないのだ。
いろいろな事件が起こり、たいせつな人々や動物たちもまた思い出になっていく。そして、ますます愛おしくかけがえのない風景になっていくのだ。
あの一場面も、あの一場面も、あの一場面も。