『独り居の日記』 メイ・サートン


書き出しはこうです。「さあ、始めよう。雨が降っている」
ああ、この本が好きだな、と読む前に感じてしまう。
室内で書き仕事をする人の落ち着いた心地よさが伝わってきて、わたしもほうっと息をつく。


58歳の詩人の、一年間にわたる日記です。
失意の底から再出発を期しての独り暮らしの記録とのこと。
庭づくりのこと、友人との会話、読書、詩作のこと、自分自身をふりかえっての内省・・・
そこから零れ落ちる著者の言葉に、わたしは心開き、自分を重ねようとしている。


「私は魂の卑しさと粗野を憎む。意味のない冗舌を情熱かけて憎む」
「詩は主として自分との対話であるのに、小説は他者との対話」
「日記の数行も書かず、何も産み出さない日がどんなに重要であるかを、私は忘れがちである」
「自己表現に巧みなほど、言葉はより危険になる。 真実を伝えるためには、できるだけ正確で慎重でなくてはならない」
などなどの言葉に一つずつ付箋を貼っていく。


しかし、これらの言葉が心に響くのは、
たとえば「雨が降っている」という状況であったり、暖炉の火の描写であったり、「オオカミ月夜」、「まるで音符のように、枝のはざまをぬって、一枚ずつ葉が落ちてくる」とか・・・そうした周囲の豊かな描写があってこそなのだ。
それは庭仕事や日々の雑務の一コマであったりするのだけれど、そこにこめられているのは、自然への深い愛情。
それらが、きっと思索や創作の栄養になっているのだろう、と思う。
著者が、日記をしたためながら、周囲の何に目をとめるか、その目線の流れが、私を寛がせる。
そこで、私は著者の言葉をゆっくりと味わい、自分の言葉へと大切に置き換えていく。


「幸福の経験はもっとも危険なものである。なぜなら、存在しうる幸福というものはすべて、われわれの渇きを大きくさせ、愛の声は空虚を、孤独を響き渡らせるからである」(フランソワ・モーリアック『ある三〇歳の日記』)
という言葉をわざわざ引いているくらい、幸福、という言葉は、この「独り居の日記」からは遠い言葉だ。
だけれど、幸福ではない、ということは不幸である、ということではないのだと思う。
幸福を求めるよりもずっとよいものも、あるに違いない。
著者は書く。「私は一人でいるように"できている"らしいし、幸福の希望は叶えられそうもない。(中略)もしそうなら、私は自分のもっているものでやってゆく他ない」
彼女の「自分のもっているもの」は、こんなにも豊かだ。


雨が降っている中で始められた文章は、秋でも冬でも、そして明るい陽射しの春であっても、どこかに静かな雨の音を含んでいるような気がする。
室内のそこここに穏やかな暗がりがあるような気がする。
晴れやかに暮らしていたら気がつくことのできなかったもの、ことに自分のなかに眠るものたちと、静かに対峙する。
孤独が友となる芳醇な時間が愛おしい。