『台湾生まれ日本語育ち』 温又柔

台湾生まれ 日本語育ち

台湾生まれ 日本語育ち


――あなたの母語は何ですか?
その質問に遭遇するたびに、慎重になったそうだ。著者自身、そのことばかり考えていたから。

>わたしが自分の思考の杖として最も頼りにしている言語は、日本語なのだ。「母国語」に限りなく近いけれど、生まれた時からわたしのものではなかった言語。
育った国の言葉・日本語、生まれた国の言葉・中国語と台湾語。流暢に使える三つの言語のどこにも、確かな居場所がない、というのはどんなに不安なことだろう。(いいや、本当にその居心地の悪さが、私にわかっているのだろうか)


著者は日本育ちの台湾人。
三歳で日本に渡り、堪能になっていく日本語と引き換えに台湾語を忘れていく。
日本で、日本語を話しながら、ごく普通に暮らしていたが、成長するにしたがって、自分がこの国では「ふつう」には暮らせない、ということを意識せざるを得なくなる。
自分が置かれた立ち位置の曖昧さ・理不尽さにぶつかるたびに、戸惑い、苛立ち、ときに怒る。
たとえば、日本に永住権をもちながら、日本での投票権はない。(台湾の国籍をもっているものの(当時は)台湾でも投票する資格はなかった!)
永住権があるとはいえ、就労が許されなかったり、就労時間の上限が定められていたり、絶えず持ち歩かなければならない外国人登録証があったり。
そもそも永住「権」とは・・・物心ついた時からごく普通に生活している。ただそれだけのことが、上から振りかけられた(そして、いつ奪われてしまうかもしれない)「権利」とは。
・・・温さんだけではない。きっと同じ不快感を耐えず感じながら生活している人たちは、この国にたくさんいる。
『旅する名前―私のハンメは海を渡ってやってきた』(陣育子)感想を読んだときのことが思いだされる。ところどころ重なる。
著者は、自分は何ものなのか、と考え始めるのだ。それは、自分の「母語」について考えることに繋がる。


あなたの母語は・・・
そう自問しながら、答えをさがして、著者は、自分の生まれた国の歴史、そして、自分の家族の歴史をさかのぼる。
中国語を学ぶ。


中国語と台湾語が混在する現在の台湾の言葉は、台湾人の父母の言葉である。同じく台湾人の祖母が流暢に話すのは日本語である。
日本の植民地時代には、皇国教育として日本語を押し付けられ、その後は中国の党国教育により中国語を押し付けられ、台湾語は、日本語や中国語よりも「下位」にある言葉として、不当に軽んじられてきたのだそうだ。
宗主国が植民地の民を下に置き、支配するのに、彼らの言語を奪い、自国の言語を押し付けることは、なんて楽ちんな方法なのだろう。
言葉とは何なのだろう、と考えてしまう。言葉を奪われることの意味を考えてしまう。
「国家によって鞭打たれながら習得せざるを得なかった言語を、人は「母国語」と呼べるだろうか?」との問いかけが心に残った。


言葉は、生きもののようだ。
そうだ、動物の形をした守護精霊と人間とが、一つの命を共有している、というファンタジーがあった。・・・『黄金の羅針盤』(実は読んでいないのですが)
「言葉」が、その守護精霊みたいなもののように思えてきた。言葉は、生きものというよりも命に近いような感じ。


母語は唯一のものである」という前提に、著者は疑問をもつ。
そうして辿りついた結論は、自分の言葉は「一つの母語の中に三つの言語が響き合っている」ということだった。
言葉世界の長い旅を経て、なんと晴れやかに言いきったことだろう。
三つの言葉が響き合った著者の言葉から、新しい文学が生まれはじめている。これからどういう風に成長していくのだろう。
やっぱり言葉は生きもののようだ。温かくて柔らかい生き物のようだ。