『遊覧日記』 武田百合子

武田百合子全作品(6) 遊覧日記(ちくま文庫)

武田百合子全作品(6) 遊覧日記(ちくま文庫)


武田泰淳亡きあと。
一人になった百合子さんが、娘のHさん(花さん)を相棒に「遊覧」して歩いたあちらこちらのこと、出会った人たちのことを書き留めた日記である。


何を見ても聞いても、百合子さんの観察眼は鋭いけれど、厳しくはない、ただ純粋に、まっすぐに相手を見ている、と思う。
風景も、人も、そして、命あるものもないものも、平等に見ることができる人なのだと思う。
だから、行き交う人や同道者に関する描写は、時々あまりにあけすけな表現にどきっとするし、一方、草花や建物、看板でさえ、それがまるで今生きて口をきくのではないか、と思うほどに繊細に描写されていて、はっとするのだ。
どきっとしたり、はっとしたりするとき、読んでいるわたしは、一瞬時が止まったような気がする。
そうして、百合子さんの言葉や行動に対するHさんの反応や意見などが書かれた箇所が現れると、また、はっとする。
親によく似ているような、わたしのような読者に近いような、ちょうど中を取りもってくれるような、Hさんの存在があって、止まっていた時間が正常に動きだしたような気がする。
あ、ここでくすっと笑っていいんだ、と思ったり、する。
そうして、二人のものの見方で、風景が心に残る。


百合子さんがHさんを伴って遊覧する場所は、主に、なんとなく怪し気な場所ではないか。
浅草の蚤の市の、それもなぜ「剥製屋」なのか。
うらぶれた感じの到底清潔とは思えない観音温泉とか。
富士山麓某遊園地の観覧客まばらな「びっくり人間ショー」の千秋楽や、「全部死んでるよ」の昆虫館。などなど。
物言えぬものたちと言えるものたちとの交感のようなものがある。このひとは、そういう場所をキャッチするアンテナを持っているのではないか。
たとえば、「全部死んだ虫」(!)だけが展示された昆虫館の、珍しい虫たちの展示のケースの脇で、死んでいたほんものの昆虫の姿に、ことさら眼をとめる。ここ、とても印象的だった。
京都の神社に収められたたくさんの願い事を書いた木の板の話の最後のほうで、「神仏に向かって、家内安全……と書く人は、まずまず安定した仕合せな人といわなくてはならない」という言葉も心に残った。


怪しく胡散臭いそれらの場所が、こうして、何か懐かしい光景に変わっていく。
怪しさよりも、そこにほのかにこもるぬくもりや、ほのかにともる灯りが、余韻のように残る。


最後の章は、遊覧ではない。
百合子さんの「あの頃」について書かれている。なぜ、この日記の最後に、この章が置かれたのだろう。
あの頃、彼女の目に映ったもの、人、町の姿が、後の彼女の、ものを見る目に結びついているのかもしれない、と思った。
遠いかなたのモノクロの世界が、長い時を経て、今、この日記のなかで小さな灯りに形を変えたのかもしれない、と思った。