『チャイナ・メン』 マキシーン・ホン・キングストン

チャイナ・メン (新潮文庫)

チャイナ・メン (新潮文庫)


中国の祖父たちは、父たちは、「金」を求めて海を渡って、華僑となった。
嘗て、中国の人々はアメリカを「金山」と呼んでいたのだ。


渡航の困難、入国の困難、そして就労の困難、命がけの過酷なふるいにより分けられて、彼らはアメリカ人になった。
アメリカ人だけれど、アメリカ人ではなかったのかもしれない。差別が彼らをより分けた。チャイナ・メンという呼称も侮蔑の言葉であるという。
(しかし、みてごらん。今のアメリカを作り上げたのは、チャイナ・メンなのだ。)


少し前に読了した『屋根裏の仏さま』(ジュリー・オオツカ)を思いだした。百年前に夫となる人の写真だけを頼りにアメリカに嫁いだ日本の娘たちの物語です。(感想
それと、よく似た背景と体験とが描かれているように思うのだけれど、印象は全く違う。
この本は、大きなエネルギーの塊みたい。あるいは、大きな生きものみたい。
祖父たち、父たち、伯父たち、そして弟たちの物語であるけれど、物語の隙間には、語りつがれるたくさんの民話や伝説、幻想、中国移民たちの権利についての「関係法」の変遷についての記述がちりばめられ、いったいどこまでが史実なのか、語り伝えなのか、さらには夢なのかおとぎ話なのか、わからなくなってくる。
ふりまわされているようで、まごついたけれど、そのうちに、無責任じゃないか、といいたいような前後関係の曖昧さや、文体の頼りなさに、ひたり、漂っている。その感じを楽しんでいる。壮大な星の中にいるよう。
各物語が、互いの間をぐるぐるまわり、大きな星雲を形づくっているようだ。


それは血族の物語である。
アメリカ人でありながら、アメリカ人として受け入れられなかった父たち、そして、中国人にも戻ることのできなかった父たち。
この父たちはとても古くて、とても新しい。
彼らは頑なである。と同時に、とても柔らかい。
ほがらかといいたいくらいに、厳しい運命を受け入れ、生き抜き、アメリカにあって、アメリカ人でも中国人でもない。
新しい人たちに、変容していく。誇り高く。


残酷な場面も心痛む場面もたくさんで、本の中の人々とともに「あいやー」と嘆きの声をあげたくなったりもするのだけれど。
彼らは、半死半生の日々の中で、あるいは激しい差別の中で自分を笑い飛ばす。
白人たちが、差別的に彼らを呼ぶ「チャイナ・メン」という言葉を、彼ら自身が自分にあてがったりもする。開き直っている。
白人鬼、インジャン鬼、イエス鬼女。「鬼」とは、どういう意味でつかわれているのだろう。自分たちを差別する人間たちを逆に蔑む言葉かな、と思ったのだけれど。


それから、子らに伯父が語って聞かせる「猫耳王子」の話が印象的。「王子さまの耳はロバの耳」の猫バージョンのようだが、この物語の聞き手の受け取り方がとてもおもしろい。
猫耳だろうがなんだろうが、誕生は喜ばしいものじゃないか、と。おまけに「猫耳ならさらにかわいいくらいじゃないか」と。
この本からほとばしるエネルギーの源はなんなのだろうと、不思議な気持ちでいる。