『チャーリーとの旅』 ジョン・スタインベック

チャーリーとの旅

チャーリーとの旅


ご近所さんが家の前の路肩に車を止めて荷物を次々つみこんでいるのを見る時、
小粋な若者がスーツケースを引いて駅への道を颯爽と歩いているのを見る時、
またはコンビニの駐車場にコンパクトなキャンピングカーが止まっているのを見る時、
もともとインドア志向のわたしでさえも、ちょっと羨ましくなる。どこかに行きたい、ささやかでいいから旅行に出かけたいなあ、と思うのだ。


「人が旅に出るのではなく、旅が人を連れ出すのだ」とスタインベックは言う。
そうして、小型船の船室のようなキャンパーを荷台に搭載した当時の最新型GMCトラック、その名もロシナンテ号に乗って、「不治の」「風来坊」は、アメリカ一周の旅に出るのである。
ニューヨークの自宅から北上してカナダ国境をまわり西へ。太平洋にそって南下し、モハーヴィー砂漠を越えて東へ。
相棒は、プードルの老犬(フランス紳士!)のチャーリー。
旅の道連れに犬の親友って、なんて素敵なんだろう。
たとえば、「アメリカ人は何かを見るためではなく、後で話題にするために旅行するのだ」というくだりがあるが、犬の相棒はもっと確かな意義(?)を披露してくれる。
樹齢2000年のアメリカ杉への畏敬の念に打たれる人間の傍らで、犬らしい敬意を表す(片足を上げる、という)姿に思わず笑い、なんだかほっとする。


ニューヨークを知っているからアメリカを知っているとはいえないし、イエローストーン国立公園を見たからアメリカを見たということはできない、という。
スタインベックの旅の記録は人との出会いの旅のようだ。
どんなに寂しいところにも「人」はいた。
どんなに人があふれているところにも、人波のなかに「人」はいた。
様々な土地で出会う人たちとの会話は、風土以上に、その土地を語って居るようにも思う。
寡黙であったり、饒舌であったり、お祭り好きであったり、・・・
一夜限り、あるいは一時限りの友情が生まれ、ともにバーボン入りコーヒーを飲み、食事をする。それから釣り竿を振る。


もっとも印象に残るのは、『ニューオーリンズチアリーダー
スタインベックは、激しい人種差別の場を目撃する。感情抑えめに語られた旅の記録のなかで、ここでは抑えがたい思いがほとばしる。
スタインベックが出会った「シ・ジ」氏は本当にいたのだろうか。もしかしたら、彼はスタインベックの中から現れた幻ではないだろうか。)
人種差別とはどういうものなのか、その根がどんなに深く張り巡らされているかを知り、茫然とするのだ。
どうしても分かちあえない価値観・・・
差別の木は、見えない根っこを無視して伐採しても決して枯れることはないのだ、と暗澹とした気持ちになる。いったいどうしたらいいのかわからなくなってしまう。
初めて黒人の子どもが白人の子どもと同等の教育の機会を得たニューオーリンズで、あの日に見た光景は、その後に出会った人たちの言葉は、百年たっても消えないで残る・・・


風景ならば、名所よりも名もなき場所が一瞬の輝きを放つ場面が好きだ。
テキサスで出会った美しい田舎のゆうぐれの光景。(風に乗って響くコヨーテの遠吠え、牝牛が引き離された子を恋しがって鳴く声。ムラサキウマゴヤシの甘い匂い、束ねられた大麦のパンのような匂い。フクロウが飛ぶ夜、ヨダカが柔らかいリズミカルな鳴き声を上げる)
モハーヴィー砂漠で、少し離れたところにいるコヨーテ(当時、ただちに撃ち殺さなければならない害獣だったが)をみつけたとき、小型ライフルの照準望遠鏡からみえたもの。(その時、コヨーテが犬のようにお座りし、右の後足を持ちあげて右肩を掻いた)


アメリカを一周する旅について回った読者は、アメリカを知ることができたかどうか。
それよりも、気の合った犬と人間と、二人のおおらかで幸福な旅に同行した印象で、それが好きだった。
そして、途上でたくさんの忘れがたい風景(見える物・見えないもの)をスナップ写真のように集めた。(一言なりには言い表せないアメリカがぼうっと浮かび上がるような気はする。とても漠然とだけど、きっとそれがいいんだ)
心から同意するのは、家に帰る喜び。
帰ることが嬉しい家があるって、幸せなことだね。そうして、安心してまた旅に憧れることができるのだろう。