『ハイウェイとゴミ溜め』 ジュノ・ディアズ

ハイウェイとゴミ溜め 新潮クレストブックス

ハイウェイとゴミ溜め 新潮クレストブックス


これは私小説だろうか。祖国ドミニカでの少年時代、移住先アメリカでの青春時代を描く10の短編集。
台風が駆け抜けていったように感じる。暑い風をともなって。
先日読了した『レッド・フォックス』に似ているような気がする。レッド・フォックスはきつねで、彼の舞台はカナダの森のなかだけれど、こちらの森は、街路。
ただひたむきに生きぬこうとするそのエネルギーが重なる。


広いはずのアメリカはなんて狭く細かく区画割りされているのだろう。人種という名で。故国の島国よりもずっと狭い世界だと感じる。
訳者あとがきによれば、ハイウェイとゴミ溜めというのは、白人とドミニカ人の地区を分断する透明な境界線なのだそうだ。
また、こうも書かれている。ゲットー化してるニュー・ジャージーのストリート・ライフ」と。
母国ドミニカでは極貧。でも、みんなそこそこ貧しかったではないか。少なくとも「人種」が問題になることはなくて、空は限りなく大きかった。
アメリカに渡った人々は何を求めたのだろうか。豊かさ、将来、チャンス・・・それらを手にいれるために何を犠牲にしたのだろうか。


極貧の少年時代、ストリートボーイとなりクサを売っていた青春時代も、そして、ビリヤード台の配達を仕事にしていた日々も、読めば、たたきつけるような激しいリズムがずんずんと伝わってくる。
しかし、その音は、どんなに激しくても、荒っぽい感じがしないのだ。
孤独な母の輪郭が、冷たい息子の肩越しに、どんなに繊細に描かれていることか。(デビュー作であるこの本は母に献されている。)
ブタに顔を食われたためマスクをしている少年の話はことさらに丁寧に描かれる。痛めつける側の痛みとなって。
どうしようもない父は、本当にどうしようもないのだけれど、実際、突き放しきれていない。時々、迷子の子どものように感じるし、そういうときの父の姿は、まるで相棒に肩を叩かれてびっくりしている子どものように、わたしには見える。
コソ泥半分仕事半分(?)のビリヤード台配達の頃の彼は油断ならないチンピラはだったが、丁寧に作られた芸術的なビリヤード台について語るところが好きだ。大切な物を愛おしむ気持ちは不器用で武骨で、思いのほかピュアだ。


熱帯の島にも、アメリカのストリートにも、熱い風が吹いている。
決して気持ちのよい匂いなんかない。
その道を歩くことしか許されなかったものが、道を押し広げつつ、渡って行く姿が好きだ。その手段の一番大きいものはきっと、彼の中のもっとも柔らかいものだと思うから。


アメリカで作家になった彼は、当然英語で書くのだろう。母語となる(ドミニカ系)スペイン語ではなくて。そのことを思いださせるのは巻頭に置かれたグスターヴォ・ペレス・フィルマトの言葉。
彼の思いを代弁しているようだ。

>あなたにこうして
 英語で書いていること自体
 本当に伝えたかったこと
 それは
 わたしが英語の世界に属さないこと
 それどころか、どこにも属していないこと