『物語で体験する「普通」の人々の戦争』 繁内理恵 (『子どもの本棚八月号 No.574 2016 』より)

子どもの本棚八月号 No.574 2016『物語で体験する「普通」の人々の戦争』 
  片手の郵便配達人 グードルン・パウゼヴァング 高田ゆみ子訳 みすず書房

著者 繁内理恵

〜『月刊書評誌 子どもの本棚八月号 No.574 2016 』(日本子どもの本研究会)より〜

 
普通でいいんだよ、普通で。
足元を見ながら、地道に暮らしていけたらいいな。そういう普通の暮らしをしたい、とわたしは思う――


グードルン・パウゼヴァング『片手の郵便配達人』。
主人公ヨハンも、村の人たちも「普通の人」の一員だった。
物語も、そして、物語について語る繁内理恵さんも、「普通の暮らしのかけがえのなさ」を知っている。
物語の「普通の人々」に寄せる慈しみを、理恵さんは丁寧に掬う。


しかし、そのうえで、「普通」とは何だろう、と理恵さんは問いかける。
参考文献をあげながら書かれる。レッテルを貼られ、名指される存在に対して、「普通の人びと」は常に無色なのだ、と。
(レッテルを貼られる存在に対して)何も経験せず、考えなくてもいい、ということが、「普通」であることの一面だと。
普通は無色、という言葉に、どきっとする。
「普通でいい」という言葉のなかに、ときによっては、ある種の無責任さがあることに、わたしは、本当はうすうす気がついていたような気がする。
そして、かけがえがないはずの「普通」を守るには、「普通」の人びとがいかに脆いものであるか。
「普通」が無色であるための、何も経験せず、考えなくてもいい状態に慣れてしまっているための脆さだろうか。


ほんとうは、足元だけを眺めていたい。天井の嵐など気にしないでいたい。だけど、
見ないですませていたものが、すっぽり自分を包み込み、ささやかな(と思っていた)「普通」を呑みこんでしまう。
「目と耳と、口を閉ざしてしまった人たちの足元に暗闇が開いていることを、この物語は教えている」と、理恵さんは書く。
牧歌的な生活のすぐ隣にある恐ろしいものは、物語に直接描かれてはいないが、「描かないことで提示される暗闇は、果てしなく深く暗い」と理恵さんは書く。
すぐ隣にあるラーゲリ、だんだん近づいてくる砲声、ぴんと張られたロープの先に繋がれているもの・・・
それは、わたしの「普通」の隣に、上に、ある。
普通の暮らしがかけがえがないからこそ、そして、苦しいときに支えてくれるのが「普通」の暮らしであるからこそ、
「普通」であることにはもう一つの面があるのだということを、その意味を、しっかり直視しなければ、と思い知らされている。


簡単に答えの出ない「なぜ」、という言葉も書かれていた。
大切な「なぜ」ほど、簡単に答えは出ない。出なくても、考えることをやめることはできない。
理恵さんはこのように結ばれる。
「その覚悟を促す力が、この物語には溢れている」と。