『カフカの友と20の物語』 アイザック・B・シンガー

カフカの友と20の物語

カフカの友と20の物語


カフカの友』から始まる21の短編のほとんどは、ラビの息子であり作家である「私」が語り手で、作者自身のようだ。
物語に、ユダヤ教の戒律(?)や習慣、文化などが大きく影響している。ユダヤ共同体の物語なのだ。同時に、それは、人間たちみんなの物語でもある。


『鍵』は、思いこみで、どんどん偏屈に自分を追いこんでいくことに、焦りを感じていた。狭い穴の奥へ奥へと脇目もふらずに堀り進んでいくようで辛い。これは、振り返れば広い世界や大きな空があることに気がつく物語ではないか、と思う。素朴で美しい物語。


『息子』は、考えられないほどに遠い空の下を彷徨ってきた父と子が、長い年月の末にあいまみえる、そのひとときの物語。
理解しあえるはずもないだろう、と思うほどの遠さ(距離も時間も経験の隔たりも)であるのに、あえて顔を合わせたい、という願いの中に、一筋の明るい細道があるように思う。一瞬の繊細な驚きが宝ものみたいだ。一番好きな一篇。


『ベーベル博士』の最後の「気がかり」の皮肉、『冗談』の最後の冗談、などのおかしみ。
価値観、いいや、何を喜びの源として生きるか、それは、本当に個人的な問題なのだ、と思う。
軽やかさとともに、思いがけない方向から物事を眺めることや、そのようにして生きることの一種の痛快さは、ぎりぎりでブラックなほうにいかず、さばさばとした印象だった。


『宿命』も、最後に思いがけない方向からの眺めを示唆されるわけだけれど、リアルだな、と思う。書かれた文章や、人が語る言葉にはトリックがある。伝えたいという思いと、汲み取りたいという思いは、ときには危険かもしれない。ひんやりとした手に頬をなぜられたよう。


いろいろな人間たちのいろいろな片隅を覗いた。
世界はある一点を境にして、たちまち反転するのだ。いろいろな方向に、思いがけない風景に向かって。そして、今まで気がつかなかったもう一つの物語があらわれるのを見る。


しかし、そもそも、この本全体、こんなにユダヤの物語なのに、作者はユダヤ教に対してどう考えているのだろう、と時々思った。
きびしい戒律や作法(?)への皮肉や、宗教への懐疑なども感じる。でも、きっぱり否定しているわけでもないようなのだ。
最後の作品『そこに何かいる』は、これまでずっと感じていたひっかかりをそのまま、文章にしたような作品であった。
「そこに何かいる」――最後にこの言葉があらわれる。何を選び、どこでどう生きるか、そして何を信じるか・・・
さんざん痛い目にあってきたユダヤ人なのだ。まして戦後わずかな年数しかたっていないその時期に。
長い旅のはてにみつけたものが胸にひびく。
この作品を最後に、この本を読みおえたことがよかった。