『八重ねえちゃん』 朽木祥 (『日本児童文学 2016年7・8月号』)


八重ねえちゃんは、答えにくいことに対して、他の賢いひとみたいに聞こえないふりをしない。そのかわり、りっぱな答えも期待できない。
おっとりした八重ねえちゃんは「いけんよねえ、こうようなことはいけんよねえ」と繰り返すばかり。でも、それを聞いて、子どもの「私」・綾子はほっとするのだ。


読み始めたとき、いつの話だろう、とちょっとの間、考えてしまった。
戦時中の話であるのに、現代の話であってもおかしくないように感じてしまって、そう感じてしまったことにぎょっとした。
子どもであれ誰であれ、「いけないと思ってもいいのだ」とわかって、ほっとするなんて、おかしいじゃないか。
いけないと思っていることを知られないように、あるいはそもそも、いけないかどうか判断することを拒んで、黙り込んでしまうなんて、おかしいじゃないか。


「いけない」と思いたくないから見ないふり、聞こえないふりをする。でもそのふりのせいで、誰かが痛い目にあうかもしれない。痛い目にあうのは誰なんだろう。
「いとけないもんから……こまいもんから、痛い目におうて(あって)しまうよねえ……」と八重ねえちゃんはいう。
「ふり」を繰り返すうちに、だんだん「ふり」が板についてしまうんじゃないだろうか。慣れてしまって、誰かの痛い目にも鈍感になっていく。逆に研ぎ澄まされてくるのは、自分(と自分の身内)が痛い思いをしないですむための防衛の感覚だ。
「八重ちゃん、非国民じゃ思われるようなことは、言うたらいけんよ。うっかり外で綾子が余計なことを口にしたら、この子も痛い目にあうけえ」と、綾子の母は言う。
娘の綾子は、身を引きちぎられるような痛みに泣いている。
母親は、娘の気持ちをわかりながら、そこに共感し寄り添うよりも、他人から非国民と思われないようにすることのほうが、娘のためだ、と考えている。
賢くならなければ、「ふり」をしなければ生きていけない社会だったのだ。


見ないふり、聞こえないふりの対象は、最初はずっと遠くにあるように感じた。遠くにあると思っていたのに、だんだん近くに迫ってきていた。
いつの間にか自分の大切なものが奪われ、自分や自分の大切な人の命さえも奪われてしまうだろう。


「八重姉ちゃんのような人が――素朴だけれど正直な人が、聞こえないふりや見ないふりをしない人が、もしももっとたくさんいたなら、空まで泣くような、あんなむごいことは起こらずにすんだのか」
綾子の問いかけに、答えられない。わからない・・・
だけど、
聞こえないふり、見ないふりを続けたら、瑞々しい感情は枯れてしまうのではないか。少しずつ自分で自分を内側から殺していくような気がする。そうして、人は人ではなくなっていくような気がするのだ。
わたしはとても恐ろしくなる。
本当に、いったい、いつの話をしているのだろう・・・