『七十二歳の卒業製作』 田村せい子

七十二歳の卒業制作 (福音館創作童話シリーズ)

七十二歳の卒業制作 (福音館創作童話シリーズ)


田村せい子さんは、女6男1の七人姉弟の次女。
中学二年生で働き始めた長女に続いて、中学校にたった一か月だけ通った後、働きに出された。
家はとても貧しかった。
さまざまな職を点々とし、結婚し、子育てが終わり、夫が定年退職したとき中学校の夜間学級に入学した。
せい子さんは十代のころからとても勉強がしたかったのだ。
「いつも手あたりしだいに本を読んでいました。古本屋で、安い本だからといって何でもおかまいなしに買っては読んでいました。」(「作者あとがき」より)
自分から望んで辞めた学校であったなら、また違う光景が見えたかもしれないけれど、「家庭の事情」により、なんの心の準備もないまま、当たり前だった日常が突然寸断されて・・・本来なら当たり前に与えられていたはずの学びの権利が、ある日突然絶たれて・・・働くことに慣れたとき、焦がれるような学びへの欲求がじわじわと湧き上がってきたに違いない、と想像する。(本編第一部の『雨』の最後の情景が忘れられない)


せい子さんが、「これをのがしてしまうと、あとがない」という思いで夜間中学入学に踏み切ったとき、次々に彼女の前に新しい扉が開いていくように見える。
ほんとはそんなに簡単なものではないだろう・・・ひとより五十年遅れということは。十代の子に混じって学ぶということは。五十年分余計に努力しなければならなかったはずだし、周囲の理解・協力なども、五十年分余計に必要なはずだし。経済的な問題もある。人生経験の豊かさは誰にも負けないとしても体力や知力はどうだろう。パソコンなど、学びのツールも昔とはずいぶん違う。
でも、あとがきから辿る彼女の学びの軌跡は、そういうこと全部含めて、それでもやっぱり爽快なのだ。
良い風に乗って疾走しているように見える彼女の八年間。(夜間中学へ、のはずが、八年に渡る学生生活になったのだ!)
中学に入れば、高校へ進みたくなる。中学を一年で卒業して高校へ。
高校で、大学への指定校推薦のことを知り、大学へ進む決心をする。四年かかるはずの定時制通信制を同時受講して、三年で卒業。
晴れて18歳と肩を並べて梅花女子大学心理こども学部こども学科児童文学・絵本コースに入学したのだ。
(五十歳違いの同級生と一緒に受講する体育、とか、それだけでも気が遠くなりそうになる)しかし、どんなに素晴らしい日々だっただろう、と思う。


第一部は「七十二歳の卒業製作」は、大学の(創作を学ぶゼミでの)卒論にあたる卒業製作である。
「君子」と名付けられた作者自身の分身による18歳までの青春の軌跡が、一章ずつ、まるで忘れられない場面の写真のように、丁寧に並べられている。
第二部は、在学中に書いた作品が「創作ファイルから」として、並べられている。様々な年代、さまざまな事情を抱えた主人公たちのなかに、若い日の作者がいる。


第一部『雨』の、霞んで見える中学校へ続く道の心細さは、心に突き刺さってくる。
第二部『高校二年生の秋』の図書館の描写のなんと明るいことだろう。


よく父親には殴られた、という。
子ども相手にそれはないだろう、と思うような怒りをぶつけられたり、実際、父の前ではずいぶん気を使っていたみたいだ。
でも、作品から受ける父親のイメージは、なんだか柔らかい。
「居心地がない家」のなかで、作者の父に対して抱いていた思い、そして、目に見えない(できごとの羅列だけを眺めていてもわからない)親子の心と心とを結ぶもののようなものが、ほんのりと伝わってくる。
第一部の『父帰る』の最後の場面の思いがけないぬくもりが好きだ。
第二部のなかの『千津子の闘い』で、千津子は負ける。喜んで負けた相手は、父だった。父だからこそ、負けたかったのかもしれない。
そして、幕間のように挟み込まれたおばはん四人旅は、父の生家と先祖の墓参りのための旅なのだ。


「私は、気がすんだのです」とせい子さんは、あとがきでいう。さばさばという「気がすんだ」のなかに、五十年分の人生と、八年間の無我夢中の学びの日々の、おそらくはここに書かれていないこと全部含めて、ぎゅうっと詰まって居るのだと思う。
なぜ進学するのか、何を学ぶか、何のために、あるいは何を求めて、・・・十代なら、きっとどこかで考えてみるにちがいない。
しかし六十代・七十代には、五十年間待たされた学びには、全く違う意味があるのだ、と思う。それも紆余曲折ありすぎの七十代には。
「気がすんだのです」という言葉は、この作者だからこその言葉で、この作者だからこそのこの言葉は、とても大きい。
とても大きいけれど、ざっくりとさばけてもいる。
そういう「気がすんだのです」はなんて晴れやかなんだろう。
よいものをいただきました。ありがとう・・・