『砂浜』 佐藤雅彦

砂浜

砂浜


わたしは海のない県で育った。
子どものころの夏休み、といって思いだすのは、遊び場だった神社の境内。降るような蝉の声。沢山のトンボ。裸足に履いたビニールのサンダルは汗ですべった。
子どもたちは日がな一日遊びに遊ぶ。
秋にも冬にも春にも、同じ場所で遊んだのだ。どうってことのない遊び場だった。
でも、夏休みは、よく知っているその場所が特別の場所になる。明日も明後日も夏休みなのだ――そう思うだけで。
そうして、夏の間に私たちはみんな大きくなったのだ。


『砂浜』
海と山に囲まれたその村には、病院も高校もなかったし、外の場所に行くには日に二本の定期船に乗っていかなければならなかった。
でも、ここには、御浜と呼ばれる美しい砂浜があった。砂嘴と呼ばれる独特の地形のおかげで内海はおだやかだった。
洋次を中心にした子どもたちは、夏のあいだじゅう、毎日、御浜に泳ぎに行く。泳いで潜って、飽きもせずに海で一日を過ごす。
海で遊ぶ子どもたちの姿が眩しい。空も海もどんなに青いことだろう。そのただなかで嬌声をあげる子どもたちの姿が目の前にありありと浮かび上がるのだ。
ああ、子どもが無我夢中で遊んでいる姿って、なんていいのだろう。


子どもたちが一日を遊び倒せるのは大人たちのおおらかな見守りがあるからだ。
子どもたちがそれに気がつくのは大人になってからだ。自分のまわりにいた大人のことを振り返れるのは。
大人よりも子どもと気が合う大男。
おばあちゃんが語る思い出話。
子どもがいる前では下品な話はそれとなく避けている若い衆。
子どもの目に映るリアルが、ただ空気のように吸い込んでいたリアルが、大人になった時、そこに非リアルが混じっていたことに気がつくこともある。別の意味を持ち始めることもある。そこから別の世界が開けたり、何かの選択の場でふいに意味をなしたりする。
そうして自身の子ども時代を振り返れば、ただ毎日夢中で過ごした夏の日々があるばかりなのだ。それでいい、それだからいい・・・


しかし、日々を遊び倒す彼らの夏は、期間限定なのだ。
都会から来ているいとこが帰ってしまう日。夏が終わっていくこと。
進学の時には村を離れていかなければならないこと。子ども時代が終わること。
そうした小さな翳り故に、ますます彼らの姿が、一層鮮やかに感じられる。


忘れられない美しい場面がある。
大きくなった洋次が、海に潜って、大人のように「いそもの」を採ろうとするのだ。
岩にへばりつくたくさんの「いそもの」は、彼が手を伸ばす先に、すうっと岩からはがれて、海の深みに沈んでいくのである。
つぎつぎにゆっくりと水のなかを落ちていく「いそもの」たちの姿を思い浮かべると、それは何とも幻想的な場面になる。
もう、子どものように無邪気に遊ぶことのできなくなった、嘗ての少年。
来年は、高校進学のために村を離れていくのである。
そうした彼が目の前に見ている「いそもの」たちはなんなのだろう。
採りたいと思うのに採れない無念さと、ただただ美しいその光景は。
少年の日が沈んでいく。そんなふうに思いながら、洋次とともに、この静かで不思議な光景を眺めていた。