『朝鮮と日本に生きる』 金時鐘


在日詩人である金時鐘は1929年生まれ。日本統治下の済州島で育つ。
著者の自伝となるこの本は、同時に、済州島を中心とした朝鮮(韓国・北朝鮮)と日本との戦後史にもなっている。
わたしは、すぐ隣の国の戦後史をこんなにも知らなかったのか、と驚く。ことごとに、日本が大きく影響しているというのに。


島であるがゆえに、韓国のなかでも独特の立場にある済州島が、日本における沖縄のようにも感じられた。
さらに、思いだす。ポール・ユーン『かつては岸』(感想)の舞台ソラ島が済州島をモデルにして書かれた小説だったということを。
風光明媚、韓国のハワイといわれる華やかな観光の島の印象とはあまりに違う、あの作品の鬱鬱とした静まりが、今、迫ってくる。
金時鐘をはじめとした嘗ての青年たちの胸の内そのもののようにも思えてくる。


この本の前半、「解放」前後の部分は、とくに響く。著者の子ども時代を振り返った部分である。
丁寧な言葉で語られ、それは人を責めたてるような文章ではないのに、日本人である私は情けなくて恥ずかしくて、申し訳なくてたまらなくなってくる。
時代と社会の流れに翻弄される著者の自省の言葉のつらなりを読みながら、もし、日本の植民地のなかで育つことがなかったなら、著者は全く別の人生を生きただろう、少なくとも、ここに、後半に描かれたような苦しみの人生を歩むことはなかっただろう、と思えるから。
植民地の朝鮮の、済州島という島で育ったことは、著者のその後の人生のすべてに影を投げていることを認識しないではいられないから。


朝鮮語を禁じられた小学生時代、著者は優等生であったという。ハングルはまったく書けなかった。夢は天皇の赤子と認められること。植民地の「皇国少年」だったのだ。
戦後の「解放」は、裏切られたようなものだった。
教育の恐ろしさをさむざむと思い知らされる。

げに恐ろしきは教育の力です。いかに年月が経とうと教育の怖さを噛みしめないわけにはまいりません。教育を一方的に管理する国家があったことを忘れてしまっては、悪夢はますますそのなかでほくそほくそ笑むばかりです(中略)私は皇民化教育による日本語に取りつくことで、実に多くのものを損ねました。
教師は口ぐせのように強く正しく生きよと教えていながら、それを受け入れる子どもたちが「強く正しく」生きることはそのまま祖国の「朝鮮」から離れていくことでしかなかったのです。


日本には、教えられたことを無我夢中で信じて突っ走ってきて、戦後、自分のアイデンティティを失い、壊れ、ぼろぼろになってしまった人たちはたくさんいたことだろう。
しかし、
金時鐘のように植民地のなかの「皇国少年」は、なおいっそう悲惨に思える。
よりどころとなる母語そのものを奪われ、そのことを良しとして、意気揚々と押し付けられた狭い価値観のなかで、いいように転がされて、あげくにぽいっと捨てられた・・・なんともやりきれない。やりきれない、という言葉さえもやりきれない。

知る、ということは大方、そのように生きようとする範囲内で蓄えられる知識です。自分の得ているものが限られた領域の中のものであることを知ることは、知っていくことの手始めのようにも思います。
自分の国の言葉である母国語の習得から私の「解放」は始まりましたが、意識の目盛りとなって朝鮮語を推し量っているのは、今もってその日本語なのです。日本語はそのために失ってしまった私の過去そのものでもあります。
言葉、そして教育。初めにあって、最終的に戻っていくところは、言葉と教育なのか、とひりひりとした痛みの中で認識する。
金時鐘の血を吐くような吐露を読みながら、同時に、気持ちの悪いものがお腹のなかからせりあがってくるのを感じる。
人生を滅茶苦茶にするための特効薬を、私たちの子どもたちに、孫たちに、降りそそがせたくない。
恐ろしさに震えながら、沢山の忘れたくない言葉に付箋を貼っている。


また、もう一つ印象に残ったくだり。
田中角栄が首相だったときに国会答弁で放った言葉「植民地統治の是非は後代の歴史家が判断することではあるが、義務教育を施行してくれたおかげで勉強ができたと、感謝してくれる友人をたくさんもっている」
著者は、一国の宰相が言うにしてはあまりに事を知らなさすぎる、と亜然としたそうだ。
植民地の朝鮮には義務教育が敷かれるまえに徴用、徴兵令が先に発布された。「義務教育」が「試行」される前に、戦争に負けた日本は朝鮮から立ち去った。それが事実だった。
この言い回し、広島長崎への原爆投下を「戦争を終わらせるために必要だった」という言い方によく似ている気がする。
あそこにもここにもある、独特の話法のような気もする。