『移民たち』 W ・G・ゼーバルト

移民たち (ゼーバルト・コレクション)

移民たち (ゼーバルト・コレクション)


望んで故郷を離れたもの、やむを得ず故郷から逃れたもの、他国で「移民」として暮らした人びとの四つの物語である。
どの物語にも「死」が覆いかぶさるようだ。
語られる人びとは、だれもかれも決して幸せとは言えない最期を迎える。
最初からその死を見越して物語は進む。
いいや、生きているときから、もしかしたら死のほうにしか顔を向けることができなかったのだ、と思う。むしろ最期のときを迎えたことにほっとするような。・・・本当に? 本当にそうだったのだろうか。


彼らの、喪った人たち、喪った故郷、喪った夢・・・それらは戻ってくる。
ふいに、それぞれにとってのかけがえのない束の間の情景が、形を変えて現れる。形を変えて、思いがけなく。
そして、その一コマ一コマを丁寧に浚いながら、心の底のほうから、静かに満たされてくるのを感じる。
不幸な人生であったはずだ・・・
それなのに、それぞれのなかで、ただ一点のそのことが、光のように灯っていたなら、その人生を、不幸とか幸福とかに仕分けしていいものだろうか。


移民たち・・・
この地上に生まれ落ちたときから、人は誰も皆「移民」となるのかもしれない。
「移民」たちが、顔を向けている故郷は、地上のどこかではないのかもしれない。


印象的なのは、「蝶男」の存在。
物語とは関係なく突然現れて、繰り返し現れて、何の意味もなさそうに背景に溶けていくような妖しい蝶男が忘れられない。
儚い喜びの象徴、忘れられない美しいものを具象化した存在、特別なパスポートを持った人を別の世界に導くために遣わされた存在のようにも思う。だけど、彼はどこに導くのか。

>補蝶網を手に草原をとびはねていたあの子が、あの遠い夏の日の幸福な使者となって戻ってきてくれた。そして胴乱のなかから、あでやかな赤立羽や、孔雀蝶や、山黄蝶や水蝋樹雀を、わたしがとうとう自由になったしるしにと、いっせいに解き放ってくれた。


いやいや、妖しいのはこの本そのものである。
添えられた写真には、トリックがある。
たとえば、「あの場面」でしれっと金閣寺の写真を出す。
夜の焚書の写真のトリックは、作品のなかで語り手自ら語る。まるで読者を手引きしているようだ。
巻末の『訳者あとがき』には、「…たとえばアンブローズの〈日記〉のなかに一九一一年版の『ブリタニカ百科事典』の記述がまるごと引用されていることに気づいたときには、正直言って一瞬ぽかんとしてしまった」件が書かれている。
これらはいったい何なのだろう。
現の地面の上から、物語がすっと持ちあがって揺らぐような気がする。


美しい物語である。
喪失と死がこんなに濃厚に描かれた物語なのに、この美しさなのだ。
語られる物語はすべて、どこか別の次元から、ひらひらと舞い飛んでくる蝶のようにも思えてくる。
そうしたら、この本の存在こそが、蝶男そのものになるのかもしれない。
わたしは本を読みながら蝶男の補蝶網にからめとられる。