『犬心』 伊藤比呂美

犬心

犬心


>急いで書かないと、タケの命に置いてきぼりにされてしまうような気がしている。
ジャーマンシェパードの老犬タケは、もう長くは歩けない。階段を上がろうとして倒れてしまう。
尻癖のよい犬だったのに、今は自分が脱糞したことさえ気がつかない。
今までできたことができなくなっていくことのいたたまれなさや悔しさ、そして、やがての諦め? ひしひしと伝わってくる。
タケを中心に、ともに暮らすパピヨンの中年犬ニコ、亡くなった父のもとからひきとった初老犬ルイ、三頭の犬たちとの暮らしから、いろいろなものが見えるような気がするし、いろいろなことを考える。


タケはさぞや美しい犬だったことだろう。賢くて力強い犬だった。伊藤比呂美さん親子とたくさんの親密な時間があった。


愛犬の老いに向かいあうにあたっての、獣医療との付き合い方も、考えなければならないことだ。伊藤比呂美さんははっきりという。「過剰に手厚くなっていくペットの医療にうんざりしている」と。
あらかじめ、どこかに線引きをしておくことは大切なことかもしれない。それは人のため、と同時に、犬のためでもあるようにも思う。
とはいえ、いつか迎える愛犬のそのときに、私はどういう判断ができるのか、予想なんかできないのだけれど。


それにしても、周囲の人間の強い助言(?)が私には気になる。
たとえかなり親しい友人であったとしても、純粋に善意からであったとしても、「頼まれもしない」助言は控えたほうがよさそう。
病人であれ病犬であれ、家族にしか見えないものもある、絆もある。
まわりの目には不甲斐なく見えたとしても、看取る側も看取られる側も、ともにベストを尽くしているのだということを忘れないようにしたい。
そのことを尊いと思いたい。わかりたい。そうした家族の選択にただ寄り添うことくらいしか、外のものにはできないのだと思う。


あと、厄介なのは遺される側の気持ち、だろうか。
逝ってしまうことはわかっている。別れの覚悟もできているつもり。
でも、今、あるいは今夜、逝ってしまわないでよ、どうか、もう少し・・・
嘗ての我がことを思いだした。


タケが、著者のもとにやってきたとき、著者は「タケのマム」と呼ばれるようになったそうだ。違和感どころかぎょっとした、という。でもすぐに慣れたとのこと。

タケが生きるということも、私が引き受けなければ、誰も引き受けてやれないのだった。だれかの「生きる」を全面的に引き受ける人、それが「母」の定義かもしれない
との言葉に、ああ、と思う。
わたしの犬、あれを我が家に連れてきたのはわたしなのだ。「母」というのはちょっと照れくさいけれど、犬が、この家で最後の日まで「ちゃんと」暮らしていけるようにしてやる責任がある。


元気な二頭の同居犬たちに囲まれて、どんどん老いていく、そして、死んでいくタケ。まるで光と影の対比のような、生と死の対比のような。
これは犬だけの話ではないのだ、と思った。


タケの晩年は、著者の父の晩年と重なる。
タケの晩年の姿と父の晩年の姿とがだぶってきて「老い」に犬も人もないのだ、と感じる。種(?)を越えて、「老」でつながる。
ああ、わたしもいずれそういう姿をさらすことになるのだな、と。そして、ああいう感情をもち、ああいう表情をするようになるのか、と。その覚悟はしておこう。きれいに歳なんかとれるわけないし、きれいに死ぬこともできそうにない。それでも、やっぱり、お迎えがくるまでは、そこにいなくちゃならないことを。
ご飯食べて、糞尿をたらして、他者と睦み合ったりいがみ合ったり、そうして、いずれ消えてしまう。犬も人も。ほかの生き物たちも。

>タケはさっきまでここにいたのだが、今はもういない。じゃあ、そこにいたのはなんだったのだろうと私は考えている。