『あの素晴らしき七年』 エトガル・ケレット

あの素晴らしき七年 (新潮クレスト・ブックス)

あの素晴らしき七年 (新潮クレスト・ブックス)


息子の誕生から始まる七年間のエッセイである。
イスラエルは戦時下で、作者が妻の出産を待つ病院には爆弾テロの被害者が運ばれてくる。
突然の空爆には、車から降りて急いで伏せる。子どもたちはロケットのかけらを学校に持っていって自慢したりする。
公園で子どもを遊ばせる親たちの関心事は、この子の将来に立ちはだかる徴兵制をどうするか、ということ。
作者の両親はナチによるホロコーストを生き延びた。立つことも横になることもできない穴倉に600日隠れていた父、ゲットーに家族で移送されたが生きのこったのは自分だけだったという母。
親世代(そして代々の祖先たち)の記憶は、子の代になっても消えない。きっと血のなかを脈々と流れていくのだろう。いくしかないのだろう。


そんなイスラエル、テルアビブに暮らす作家のエッセイは、それだけで深刻な話になるんじゃないか、と思うのに、なんだかのんびりしている。
それがなんともシュールな感じに思えて、『突然ノックの音が』の続きを読んでいるのかな、と錯覚してしまいそう。
しかし、これは現実の世界、イスラエルでの日常の一コマなのだ。
非日常のなかに、日常はある。普通の人たちの普通の暮らしがある。いっときのなかに驚きや喜びがある。忘れられない深い哀しみや思いもある。人の暮らしがある。


この本は、おおらかだけれど、ほんとはとても繊細だ、とおもう。
徴兵制の話も、トリのゲームの話も、本当に言いたいことは何だろう、と考える。
それから、タイで象使いになった兄の歩き方。仏頂面のタクシー運転手との会話(?)の顛末。ポーランドの「僕らの家」で、思いがけない人からの思いがけないジャム。
その都度、しばし本から顔をあげて、今読んだ物語をよくよく反芻する。
充分に味わってからでなければ、先を読み続けられない。もったいなくて。


ああ、戦下の町で。ああ、ホロコーストの記憶を持つ両親を持って。作家として世界各地を飛び回れば、あちこちで反ユダヤの言葉や態度(多くは自身の言葉や態度が差別ということさえも気がついていない差別)にぶつかって。
…彼のこのおおらかさ、ゆとりはいったいどこからくるのだろう。饒舌に語って居るのに、感じられるのは、澄んだ水みたいな静けさ。これはほんとうに何だろう。


著者は、子どものころ、父母からお話をたっぷり聞いて大きくなった。
後年、父がお話を通して息子に何を教えようとしているのか、わかった、という。それは、

>どんなに見込みのない場所でもなにかいいものを見つけんとする、ほとんど狂おしいまでの人間の渇望についての何か。現実を美化してしまうのではなく、醜さにもっと良い光を当ててその傷だらけの顔のイボや皺のひとつひとつに至るまで愛情や思いやりを抱かせるような、そういう角度を探すのをあきらめない、ということについての何か。
作家エトガル・ケレットの根っこはここにあるのではないか。彼の作品を読む時に感じる信頼感は、こういうことなんじゃないか。
それは、決してのほほんとしたおとぎ話なんかじゃない。