『十三番目の子』 シヴォーン・ダウド

十三番目の子 (児童単行本)

十三番目の子 (児童単行本)


一人の女が産んだ十三番目の子を十三回目の誕生日に、暗黒の神ドンドにいけにえとして捧げなければならない村があった。
ひきかえに十三年の繁栄が約束される、従わなければ村はこの世から消え失せる。
それは、岬の石碑に刻まれた古い言い伝えであった。
女たちは子どもを産む。そして子どもの数が12人になったら、もう子どもを授からないように、魔女にお守りを譲ってもらうのが常だった。
しかし、12番目に生まれたのが、たまたま双子だったとしたら・・・
そう、そして、双子の後から生まれたほうの子が、この物語の主人公ダーラ。13歳になったら生贄として海に沈められる13番目の子どもだった。


力強い寓話的な物語である。そして美しい物語である。
民話のようであるけれど、その実、かなり現代的なのではないか、と思った。この物語の行間には、書かれない物語がたくさんあるはずだ。
きっといろいろな読み方ができるはず・・・読みながら、思ったことを思ったまま、書いてみたい、と思う。


13歳で殺される運命の子どものこと。
死にたくなんかない。最初から殺されること、殺される瞬間が決まっているなんて、それを本人が知っているなんて、あんまり残酷すぎるじゃないか。
まだまだ子どもである彼女の悩み、苦しみを思うことさえ辛いではないか。
それでも、彼女は抵抗はしないのだ。粛々と運命に従う。なぜ。それ以外になかった。従う以外の選択肢は彼女にはありえなかったのだ。
生まれたときから親兄弟と離されて、村人の誰とも交わることもなく、族長のもとで養育された。
言葉を覚え始めたときから、自分の運命を繰り返し聞かされ、死は怖くないのだと擦り込まれ、13年かけて「いけにえ」に育てられたのだ。
辛い、怖い、死にたくなんかない、と、思いを口にすることもできなかったのだ。
・・・私が思い浮かべたのは、戦争に命を捧げ(させられ)た若者たちのこと。
例えば、聖なる名を冠された特攻隊の若者の姿を重ねる。
そして、徴兵され、戦地へ向かえ、とただ紙切れ一枚で命令された若者を重ねる。
古今東西の、生贄にされた若者たちの群像が、ダーラの運命に重なって仕方がなかった。


そして、村人たち。
自分たちのためにひとりの少女が今、殺されようとしている。いいや、自分たちの手で、一人の少女の命を奪おうとしている。
そのことに対する村人たちの無関心さ、冷酷さ。心の一部がマヒしているような。彼らのなかにわたし自身はいないだろうか・・・


無関心な村人たちと、「生贄」に育てられる子どもの存在との、異様さ、不気味さは、時代を越えて、今ある社会のありようによく似ているのではないか。
社会は生贄を求める。そして、その事実に向かい合うことの恐ろしさのために人びとは無関心という鎧をまとう。


石碑に刻まれた暗黒の神ドンドのいいつたえは生贄の要求であるが、その言葉の前に、ドンドのわざ(?)により、昔々、村人たちは、死を恐れるようになり、“もっと”という欲望をかきたてられるようになったのだ、と記されている。
欲望は留まるところを知らない。そして、欲望は、常にいろいろな形で、それに見合った生贄を要求するものだ。
けれども、生贄をさしだしてまで、手に入れたいものはなんだろう。そうして手に入れたものは、本当に幸福につながるのか。(つながる、という選択肢がそもそも恐ろしい)
自分の子を生贄として差し出すしかなかった母親の13年間の苦しみは、もうひとつの生贄のようだ。
一つの欲により、素晴らしいものを手に入れた。しかし、そのために払った犠牲はあまりに大きすぎた。彼女のその後の人生は、不幸という一言ではたりないほどだった。


物語は清々しい希望を残して終わる。(そっと小さな栗鼠を手に乗せてみたい、と思う)
けれども、一方で、私はまだそれ以前の村に置いてきぼりになったような気持ちでいるのだ。