『アウステルリッツ』 W ・G・ゼーバルト

改訳 アウステルリッツ (ゼーバルト・コレクション)

改訳 アウステルリッツ (ゼーバルト・コレクション)


不思議な作品だった。
段落というものが一切なく、1ページのなかにぎっしり文字が詰め込まれている、という印象。
そして、文章にリアリティを与える写真(しかも雰囲気のある)がふんだんに添えられている。
その形に、面食らったが、覚悟していた読みにくさはなく、むしろ、文章の美しさ、場面場面に漂う儚ないような静けさに魅了されてしまった。なにかの余韻のようだ(でも何の?)

何度も何度も重なる、「わたし」とアウステルリッツという人物との邂逅。彼の容貌や気配にまといつく、ちょっと現実離れしたような気配。
(もう初老の男であるのに、読んでいる私には、年齢不詳の不思議な軽やかさ、影の薄さを感じる。どの地面からも少し浮き上がって居るような、とらえどころのない自由さも)
アウステルリッツの人生の非凡さが、ごく身近に感じられるようになってくる。彼の影の薄さが、薄さゆえに近しいものに思える、というか。
そのくせ、ムードに流されることを決して許してくれない、常にぴんと張り詰めた見えない糸のような緊張感がいつも伴っているような読書だった。


アウステルリッツは、チェコ生まれのユダヤ人の子どもだった。5歳のとき、死の一歩手前で、ナチスに占領された国から、イギリス人の里親に引きとられイギリスで教育を受けた。
けれども、彼は、イギリスに渡る以前のことを覚えていない。養父は、彼の過去の手がかりとなるもの一切を捨て去った。
アウステルリッツは長じて、自分の本当の名前を知ったことから、自分の過去を、自分の両親を、探し始める。微かに残っている記憶の小さな小さな断片と照らし合わせながら・・・


ナチスがドイツの第一党となり、近隣の諸国を占領していく様子を見ていくと、人間がどんなにもろいものか、そして、そのもろさを占領者はなんてよく知って居たのだろう、とぞっとする。
彼らがユダヤ人にしたこと――人間を人間ではないものに変えていく過程――を、おぞましく読む。


アウステルリッツは、こうした彼の前に待ち受けていた地獄から、救われたのだ。
偏屈な養父、病的な養母ではあったかもしれないが、彼らなりに養い子を一人息子として大切に育て、高等教育を受けさせた。
それにもかかわらず、これは救われた子どもの話ではない。
後年、イギリスの暮らしをアウステルリッツは「まやかしの人生」という。
自分が何ものであるかわからないことは、本来持って居るはずの自分自身を失ったまま(失ったことも知らずに)生きることだった。
魂の入って居ない袋として生きることだった。
自分の出自をさがすこと、父と母の行方を追うことは、死んだ体に魂を吹き込み、もう一度生き返らせることのよう。
こんなふうに言うのは、アウステルリッツを生かした養父母に対してあまりに理不尽な仕打ちと思うけれど、彼らは、人が何ものであるかという根源の部分を捨てさせ別のものに上書きするようなことをした、ということだろうか。(でも、ほかにどうしたらよかっただろう。)
それはナチスユダヤ人を人間ではないものに作り変えていったことと、はからずも似てしまったのかもしれない。・・・なんとも残酷な言いよう、ひどい言いようだけれど。
(だってどうしようもなかった。そうしなければ、彼はとっくに虐殺されていたはずなのだ。狂った時代だった。むしろ時代の犠牲者だった)


これはいったいなんなのだろう。アウステルリッツの軌跡はなんなのだろう。人はいったいどこから、「その人」になるのだろう。読むほどに迷路の奥深く踏み込んでいくようだ。
作品中、いくつも出てきた写真は、威容を誇る建物。要塞のような収容所の跡や、駅舎など。意匠を凝らした天井を見上げながら、もともと、どのような目的でこの建物は建てられたのだろう、それなのに、どうして、そんな役割を引き受けさせられたのだろう、と考える。入れ物の見事さと中身のさむざむとしたがらんどうさは、だれかの似姿のようではないだろうか。
また、マロニエの樹の、地面に広がる根塊の写真。入り組んだその根は、迷路のようにみえる。でも、その根塊は、地上高く枝を広げる樹に続いているのだ、とかろうじて考える。


ずっと感じていたアウステルリッツその人の年齢不詳なイメージ、影が薄いようなイメージ、
それから、この文章は何かの余韻のよう、と思いながら読んでいた事、
そうしたこと全部に、もしかしたら説明がつくのかもしれない、と思った。
5歳で本来の自身を失った彼だったこと、それを取り戻すために、5歳のころの記憶のなかに戻ろうとしていたこと、
その後の人生が、考えようによっては、実は5歳までの人生の余韻のようだともいえるのではないか、そんなことを考えた。
(・・・表紙の、あの仮装姿の童子の写真にも、そうした思いを重ねる)


巻末に添えられた多和田葉子さんの解説がとても良かった。
「英語が母語だと思ってずっと生きてきた彼が、実は自分には別の言語を話す両親がいたのだと知ったとき、英語との関係にヒビが入ったのではないかと思う」というくだり、
また、
ゼーバルト独特のメランコリーは英訳されることで生まれてきたものだ」というある研究者の言葉を引き、
「ドイツ語という言葉が許してくれなかったメランコリーが実は書かれたものの底に隠されていて、それは作者自身が朗読する時や、翻訳された時のみ前面に出てくるということもあり得るのではないか」という。
ひとつの言語のなかに、それぞれ、そのような目に見えない性格がある、ということは衝撃的。
そして、ああ、そうなのかもしれない、そうだったのか、と腑に落ちる部分がたくさんあった。
人にとって言語とは何ものなのか。母語とはいったい何なのか。言語は魂、または魂に極めて近いものだろうか。作品を今一度振り返っている。
アウステルリッツの旅の始まりは、母語を失ったこと。失ったのに、失ったことを長い間知らずに生きてきたことがどんなに恐ろしいことであったか、と振り返っている。