『草原に落ちる影』 カーレン・ブリクセン

草原に落ちる影

草原に落ちる影


『草原に落ちる影』は、著者の生涯最後に出版された作品集であり、『アフリカの日々』の続編、あるいは拾遺集ともいえるそうです。


最初の章(?)は、『ファラー』
有能な執事であったファラーは、同時に、著者にとって信頼できる友人でもあっただろう。
「・・・それに対してわたしはファラーに感謝する以外なにひとつできなかったが(中略)あれから三十年たったいまも、そしてわたしが生きている限り、ファラーに負債を追っていることになるのだろう」
ブリクセンの真情がこぼれる一文に、この章のあれこれのエピソードが凝縮されてくる。
しかし、それよりも、彼に対して、尊敬や、憧れに近い気持ちを抱いていたのではないか、と思われる以下の記述が好きだ。
「…ファラーは、あのマルヴォ―リオと同様に、立派な執事として真面目を絵に描いたような態度をとっている時でさえ、心に野生動物と同じ性質を秘めていたからだ。」
「野生動物」とは、彼女にとって最上級の賛辞に等しいのだと思う。だって、この本のなかのどの章にも、アフリカの野生動物たちの佇まいを息を呑むような美しさで描写するくだりに出会う。
たとえば、『王様の手紙』のライオンの姿に王家の紋章を重ねるくだり、朝もやのなかをわたっていく三頭のキリンの姿に「神のほまれあらんことを」という言葉が思わずこぼれるようなくだり。
ほとんど畏敬に近いような思いで、私はそれらを読む。
ブリクセンは、この章のなかでファラーという人を浮かび上がらせつつ、思い出のなかのアフリカそのものを浮かび上がらせようとし、アフリカへの憧れと思慕とを描きだしているように感じる。


各々の土地、各々の民族には、固有の性質があり、歴史があり、文化がある。価値観も違う。
そうした異なりに、敬意なしに関わってはいけないのだ、と著者とアフリカの土地や友人たちとの結びつきに憧れつつ、つくづくと思っている。
何年、何十年、ともに暮らしても、驚きの連続、しかもその驚きを喜びと感動とともに振り返るブリクセンの回想が好きだ。


最後の章『山のこだま』は、ブリクセン最晩年の著作だそうだ。
以前、『アフリカの日々』を読んだとき、私は、遠いからこそなお一層忘れがたく輝く、彼女の「アフリカ」に出会った、と思った。
『山のこだま』では、『アフリカの日々』よりも、さらに遠く、圧倒的な距離を感じた。
ブリクセンは、アフリカを去った後、ファラーを中心として、彼女のもとにいた人びとと、ずっと連絡を取り続けていたそうだ。
「こうして彼らはやってくる・・・」という言葉に、短い、口述筆記の手紙から、過去の友人たちがひとりひとり、立ちあがってくるのを感じる。昔のままの姿で。
その交流は、第二次大戦でのドイツによる占領時代に途切れるが、その後、彼女は、消えかけた糸をたどり、人びとの消息を探しだす。
その途切れない糸は、読んでいて嬉しくもあり、寂しくもある。
連絡の道筋が通っていることが、かえって両者の距離を強調するように感じることもある、と思うのだ。
人びとの暮らしは変わっていく。あたりまえだ。アフリカも変わっていく。その変わり行く様が寂しい。
でも、変わってもなお、互いを求め、懐かしむ心は変わらない。
変わらない同士の存在が、仄明るい絵のようで、しみじみと嬉しいと思うが、同時に、変わらない者同士が遠く隔たったところにあることが寂しい。