『結婚式のメンバー』 カーソン・マッカラーズ

結婚式のメンバー (新潮文庫)

結婚式のメンバー (新潮文庫)


ぶざまで恥ずかしい、ひりひりと痛くて苦々しい。不器用であまりに繊細だ。
同時に、甘酸っぱいような、名残惜しいような思いが湧き上がってくる。
外から見たら辟易とするような12歳のめちゃくちゃな語りを聞きながら料理女ベレニスが言った「あたしたちはみんな、多かれ少なかれ閉じ込められているんだ」という言葉がストンと胸に落ちる。
フランキーが閉じ込められているのは、疎外感からだ。
憧れている少女たちのクラブのメンバーになれないこと。そのことで自分が取るに足らない存在のように思わされていることが、耐えられないのだ。
それがどうでもいいことに思えるような、何ものかが彼女には必要だったのだろう。


一昨日まではフランキー、昨日はF・ジャスミンで、今日はフランセス。
彼女は、自分が閉じ込められていることに気がついてしまった。入れ物を力任せに壊して外に暴れ出ようともがいているような感じ。
そのパワーに圧倒されるのだけれど、
入れ物を壊して、なお存在し続けることができるのだろうか・・・


訳者あとがきに、「この小説は単なる『人生の通過儀礼』を描いた小説ではない」という言葉があった。
時期ごとに三つの名を持つこの少女の体験はあまりに鮮やかで、どんな言葉もきっと当てはまらない。
通過儀礼」とか「思春期」とか・・・何かレッテルを与えたら、それできっと一般化されて、その先にある、フランキーからF・ジャスミンを経てフランセスである少女のそれが、言葉にならないそれが、別のものに変わってしまう。そのレッテルにあてはまらないものは、忘れ去られる。
フランキーは、何度も言い淀む。なんとか自分の感じているもやもやしたものを言葉にしようとしながらうまくいかない。
辛抱強く聞き、もやもやに名前を与えようとするベレニスの言葉は、やはり、どこかずれている。
(ただ一人の肉親である父親は、もっともっと遠い)


それでも、彼女のぶざまで痛い姿に、どこか既視感のようなものを感じる。
「それはほとんど神秘的な目の錯覚であり、想像の産物だった。家に向かって歩いているときに突然、彼女は激しいショックを受けた。(中略)彼女の斜めうしろに何かがあり、左目のぎりぎりの端っこで、それがぱっと輝いたのだ」
こういう感じを、わたしもまたこの小説に感じているような気がするのだ。


少女の明るくもないある八月が、ものすごく閉塞的な乾いた八月が、一方で、ある潤いと美しさともいえるような空気をまとってみえるのは、この小説が、目の端でとらえた鮮明な明るい何かだからかもしれない。


第二次世界大戦真っただ中を感じさせないほど静かなアメリカ南部の町。
明日の命の行方も分からない兵士が束の間の休暇を過ごしにやってくる。一夜の快楽を求めて。
バスは白人と黒人の席がわけられていた。
静かな夏の日盛り、けだるい空気の中に、ときどき氷の粒が混ざって居るのを感じて、はっとする。
それでも・・・いや、それだから、
夏の一日の、刻一刻と移り変わっていく情景描写の繊細さ、美しさが、心に沁みてくる。ほとんど切ないくらい。
たとえば、夕暮れの描写。
「黄昏は白みを帯び、長い時間続いた。八月の一日は四つの部分に分けることができた。朝と昼と黄昏と暗闇とに」
「夏の黄昏の様々な物音が台所の沈黙の中で交叉した」
「それは台所の物の輪郭が暗くなり、人の声が花開く時刻だった」
・・・それらの記述が、少女の肖像を飾る端正な額縁のよう。