『夜の語り部』 ラフィク・シャミ

夜の語り部

夜の語り部


稀有な語り部、老御者のサリムは、ある日一言もしゃべることができなくなってしまった。
サリムの「ほこりっっぽい、ごつごつした言葉から、おとぎ話のような言葉の木を作り出してきた妖精」が、老いて引退してしまったのだ。
もし、サリムが三か月のあいだに七つの特別な贈り物を手にすることができたら、若い妖精が老いた妖精と交代して、またサリムの舌を動くようにしてくれるというのだ。
七つの贈り物とはなんなのか。サリムは考える。
もしかして…ということで、サリムの七人の友だちが――いつもサリムの語る物語を楽しみに聞くばかりだった七人が、毎晩、ひとりずつ、慣れないながらに、自分のとっておきの物語を、サリムに聞かせることにした。


七人の語る物語はどれも聞いたこともない話で、奇想天外。しかも、どの話も話し手の性格や半生を彷彿とさせるのだ。ひきこまれる。
王さまに王子、お姫様。怪物や悪魔。魔法使いに盗人詐欺師。陰謀もあれば冒険もあるし、知恵者もいれば、おろかものもいる。
語りのあいだに入る茶々も、話の腰を折られたことを嘆くにあたらない。短く歯切れが良い小噺で、しかもどれもおもしろいのだ。
それから、サリムと七人の交友、日常や会話なども加わり、物語は絢爛豪華な万華鏡のよう。


この本を読んでいる間、わたしは確かにダマスカスの、あのサリムの部屋(の外の窓の下)に、すわっていた。すわってじっと聞き耳をたてていた。
「ダマスカスの路地の喧騒が聞こえる。そして、中庭で遊ぶ子供たちの声が」と、訳者あとがきに書かれている。
そのとおりなのだ。この本全体から1950年代のシリアが、ダマスカスが、空気の匂いや音とともに、浮かび上がってくる。
お話を聞くのは、きっと耳だけの仕事ではない。体全体が、そのお話が語られる場所(と時代)の空気に浸されてくつろいでいる。


世情は、皮肉となってあちこちに、挿入される。
大統領に対する大仰すぎる持ちあげ方と、貧富の差の激しさ。秘密警察の暗躍。そして隣国はほんのわずか前には友だったのに、今は敵なのだ。
サリムの友人のひとりイサムが語る、王様と嘘の話にはあてこすりがいっぱい。
トゥーマのアメリカでの体験が、シリアしか知らない友人たちに信じてもらえない笑い話は、そっくりそのまま当時の(今もかな)アラブの常識を知らなすぎて驚く私のようなものを笑い飛ばしてもいるようだ。


そろそろトランジスタラジオ(悪魔ですと。人々の口から言葉も時間も奪うから?)なども現れていたけれど、まだまだ町にお話は生きていた。
マクハというのはバーでありカフェでありレストランのようなところだろうか。ここで提供されるのは飲食物だけではない。ここにはハカワチというプロの語り部がいるのだ。
物語が、人びとの暮らしのなかでどんなに大切なものであったことか、語り部はどんなに大切にされていたことか。
さまざまな挿話を通じ、さまざまな手段で、訴えてくる。その一文一文が美しいのだ。
たとえば、「言葉は目に見えぬ宝石だが、それがわかるのは、言葉を奪われたものだけなんだ」


サリムは言葉をとりもどすことができるのだろうか・・・
そもそも言葉とは何ものなのか。
気がつくことがある。「物語が生きつづけるためには少なくとも二人の人間が必要なんだ」
語り部がどんなに素晴らしくても、聞く耳がなければ何もならない。
語ることと聞くことがともに、物語(言葉)を死なせずにいるのだ。
沈黙が言葉を産み出し、物語を豊かに育て上げていく。