『フラゴナールの婚約者』 ロジェ・グルニエ

フラゴナールの婚約者

フラゴナールの婚約者


心寄せたくなるような魅力的な主人公たちはいないな、と思わせる短編集。ときどき、その自意識の高さに辟易としたり。
だから、最後に、何かゆかいではない結末を迎えたとき、同情よりも、むしろ突き放して、ちょっとだけ笑って眺めている。
『第六の戒律』も『視学局』も、『あるロマンス』も。『風見鶏』も、そんなふう。
だけど、そうはいっても、今一つ、なにか心をかすかによぎる、ちくりとした痛とか、なにか、形になりそうでならないような小さな心のゆらぎを、無視できないでいる。
たとえば『プラリーヌ』の嘆きから似たような自分の思い出が苦くよみがえり、この子に頬をよせたくなる。
『ベルト』 滑稽な身振りの人、笑い顔が印象的な人の、紙の上にさえ残らない名前のことが、(残るべきなのに!)残っていないからこそ、その名前をいっそう忘れがたいものにする。
『反復』 最後、父にとって、ああいう友人が必要だった理由に思い至るくだりに、はっとして、ここで、このように振り返れた主人公のことを、はじめて認識したような気持になる。


訳者あとがきを読み、これらの作品が自伝的色彩の濃いものであることを知った。
そういうことだったのか・・・と『沈黙』の、付箋を貼っておいたあの一節を振り返っている。
「自分の思い出を壊して、それを嘘でかためた小説に作り変える。なぜそんなことをする必要があるのか。いかなる虚栄心に駆られてわれわれの苦しみや喜び、胸中ふかく秘められた思いなどに形をあたえ、それを万人に読んでもらおうと思うのか。文学の透明なベールの下に、おそるべき破廉恥さがまる見えではないか。」
カフカの「自分は一軒のあばら家(思い出)を持ち、新しい家(小説)を建てるためにその古い家を壊してそこから石や資材を取り出す人間に似ている」という言葉を受けての一節だった。


この短編集が、作者の人生(体験?)をベースにしているのなら、全然愛せない主人公たち、彼らにまつわる笑うしかない不運な(?)できごとなども、また別な見方ができるかも。
自分のことをここまで突き放して客観的に書けるのか(鼻持ちならないやつであったり、とんだまぬけであったり) 
ほんとに、これ、自伝ではなくて、小説だもの。
『三たびの夏』で現れた言葉「あなたのお好きなものって、女でしょ。そのほかに何がありました?」に、手を叩いて笑っている。
この本のなかの、多くの短編のなかで、主人公は、女性の姿が気になって気になって仕方がないのは、あきらかじゃないか。気取ったり、もっともらしい理屈をつけたりしているけど。
ここで、ずばり指摘されて、今更うろたえるのはよしてほしいじゃないか。
「人生の何でもないことが突然ある人間を感動させ、別の人間を感動させないのは何故だろう。」(『三たびの夏』より)
あらたまって誰かに話すほどのこともないけれど、日々の暮らしのなかにはなんてたくさんの喜劇が隠れているのだろう、と思う。