『モンスーン あるいは白いトラ』 クラウス・コルドン

モンスーンあるいは白いトラ

モンスーンあるいは白いトラ

インドの階級制度は、三千種のカーストと二万五千種のサブカーストに細分化されているのだそうだ。気が遠くなりそう。
宗教がらみの階級制度とあっては、ややこしそうで、外から迂闊には何も言えないような気がする。
それでも、その日の食もままならない路上暮らしの人びとが大勢いて、少数の富裕者たちが有り余る金をぱっぱと使い、互いに相手は存在しないかのようにふるまっている状態を見せられたら、やっぱり、このままではいけないだろうと思うのだ。


大金持ちの工場経営者チャンドラハスの跡取り息子のバプティは、パーン売りの少年ゴプーに出会う。バプティは友達までも金で買おうとしている(本人はそういうつもりではなかったのだが)
ゴプーは、浮浪者ではなかったが、一家が詰め合って狭いアパートに暮らす家族の六人兄弟の長男。父がもうすぐ職を失い再就職のあてもない、という状況で、バプティのボーイとして、チャンドラハス家に仕えることを了承する。家族を養うのは自分しかいなかったから。


いってくるほどに立場の違う二人の少年。彼らがおかれた状況は、彼らには何も責任がないけれど、そのために、見えないものがたくさんある。
二人が出会うことにより、見えなかったもの、見ずにすんでいたものが浮彫になっていくようだ。
さらに、ゴプーを中心にして、最下層、寄る辺なき若者たちが出会うころから、さらに世界は広がっていく。
底辺だから見えるものがある、とそれほど話は単純でも無い。いろいろな考え方の人間たちがいる。


強く心に残るのは、料理人の娘リッサの言葉。
「あんたたち(雇い主)はさ、自分がほしいものは何でも手に入れるのよ。それが物であろうが、人間だろうが、かまっちゃいないんだわ。自分にその権利があろうが、なかろうがね。…それで、あんたたちが手にいれたものは、不幸のどん底に落ちていくのよ」
しかし、手に入れたものを不幸にするのと同時に、雇い主は、自分自身もまた不幸にしているのではないか。それに気がついているのだろうか。気がつきつつ、気がつかないふりをしているのだろうか。


自分の主人は自分でありたい、と願うゴプーはボーイで一生を終わりたくないと思っている。
しかし、富裕者は富裕者ほど、がんじがらめになり、自分自身の主人でいることから遠く隔たっていく姿も、見せられる。
そういう意味では、もっとも解き放たれているのは路上生活者、ということになりそうだけれど、それも変だ。


「我々の神々が俺たちを創ったんじゃない。俺たちが神々を創ったんだ」というシャンジーの言う言葉は説得力がある。
けれども、一方で、マンガーのように信心深く堅実な生き方は意味がない、とはどうしたって思えないのだ。
そう思うから、厄介なんだ・・・


格差について、下から上を見ながら言う言葉も、上から下を見ながら言う言葉も、どちらもきっと半分は正しいのだ。
バプティの父親が、浮浪者たちについていう言葉、シャンジーが富裕者たちについていう言葉は、正反対でありながら、どちらにも耳を傾けたくなる。
でも、どちらも一方的だと感じる。自分の足元は見ないで、相手の批判ばかりをしているように感じる。
物語の中で、たくさんの問題提起がなされる。少年たちはその都度、考える。答えは簡単には出されない。


ひとときを、階級を越えて、少年たち(少女も)が小さな庵でともに暮らした。
そして、それぞれにこの場から旅立っていった。
どの人生も前途多難で気が遠くなりそうなのだけれど、それぞれには、自分のやるべきことがしっかりと見えているのがわかる。ここで出会った友人たちの存在が彼らをこれから支え続けるだろう、ということが信じられる。二度と会うことはないかもしれない彼らだけれど。
わたしは、特にバプティがここにいたことを尊く思う。彼はどういう立場にたったとしても、きっと別の立場に自分の身をあてがって考えられる人に育ちつつある。
彼が最後に見せた笑顔を私も忘れない。