『コドモノセカイ』 岸本佐知子((編訳)

コドモノセカイ

コドモノセカイ


編訳者あとがきに、子どものころに読んだ本の思い出が書かれていた。
「仲間に裏切られたような、置いてきぼりをくったような気持ち」の読後感・・・読みながら、私も子どものころを思い浮かべ、わかる、と思ったのだった。
私も主人公と一緒に冒険して、一緒に悩み、ほとんど一心同体だったのに、最後に、主人公はひとりでさっさといいところにいってしまって、私は味気ない現実に戻らなければならなかったのだ。ほら夕飯の支度を手伝え、と母親が呼んでいる、手つかずの宿題だって待って居る。
わたしは「置いていかれた」のだ。


この本は、子どもにまつわるアンソロジー。しかし、
「ここに出てくる子供たちのほとんどは、孤独だったり、弱かったり、ひねくれていたり、卑怯だったり、とにかくもう変だったりする(編訳者あとがきより)」のだ。
確かに、この本の、どの物語を読んでも、「置いていかれた」と感じることはなかった。だれもひとりっきりでいいところにいっちゃう子なんていなかったから。
逆に、とっくの昔に、こちらのほうで置き去りにしてきた「子ども時代」のジクジクしたところに、引き戻されるような気がした。


たとえば、私はカレン・ジョイ・ファウラーの『王様ネズミ』が恐い。
優しい目をして、孤独な子どもによりそうような地下室の動物たち。でも、彼らは実験動物なのだ。彼らの行く末は・・・
そこに『ハーメルンの笛吹男』の話が加わる・・・
わたしが引き戻される場所は、あの地下室のような場所ではないか。
そこに、全然明るくなかった子ども時代のあれこれが、わたしを待っているのだ。
封印しておいたはずの、たくさんのくらいものたちのほうが、そして、思い出という形をとることさえできないような、しょうもない瞬間瞬間の寄せ集めのほうが、もしかしたら、よりリアルで、より自分らしいかもしれない、とふと思う。
それは、そこに立ち向かうことによって、何かが開けるわけでもなくて、もちろん輝きなんか全然与えられなくて、どうしようもなく、ごろんと打ち捨てられ忘れられたものたちの墓場のようだ。
ハーメルンの笛吹がこどもたちを連れていくのは、もしかしたら、そういう場所かもしれない・・・


ほとんどの作品が、あまり気持ちの良くないおかしな夢をみているみたい。自分のかけらがあちこちに混ざって居るようで、決して好きにはなれないけれど、捨てておくこともできないような。
やっぱり、へんな作品集だなあ・・・


そんななかで、エトガル・ケレットの二つの作品は、二つとも好きだ。
『ブタを割る』の主人公の執着は、へんてこだけれど、なんとなく甘酸っぱいような気持ちがわき出てくる。私が過去に置いてきた「ブタ」たちがふいに蘇る。
ハンカチを結んで作った人形と一緒に歩いているうちに、もう二度とただのハンカチに戻したくなくなったことなど思いだした。
『靴』は、少年の繊細さが面はゆく眩しい。
ほんとは、囚われからの解放の物語だろうか。けれども、これが、ぞっとする話だと思うのは、今の私の気持ちのもやもやが原因かもしれない。どういう靴を履いているのか忘れて、ただその履き心地の良さにルンルンしてしまうことが、怖くなってしまうのだ。しかもその靴がどういう靴か、自分以外誰も気にしない、知らないのだ。


最後は、中編。エレン・クレイジャズ『七人の司書』
その閉ざされた世界は、はてしなく魅力的だ。だって図書館なんだもの。それも、古びて忘れられて、図書館そのものがもう大魔女のようになっている。そこに超がつくようなプロの司書が七人だもの。大魔女に仕える七人の魔女だ。
しかし、目を覚まさなければ。
扉が開かれるのだ。最後に、世界にむかって扉が開く。
本のなかの忘れられた「子ども時代」に閉じ込められた読者もまた、同時にこの扉から解放されるのだ。
魔法が解けるように・・・
それは、おいてきぼりの子ども時代をもう再度味わいなおして、もう一度、大人に戻るべく送り出されるようだ。