『世界の果てのこどもたち』 中脇初枝

世界の果てのこどもたち

世界の果てのこどもたち


第二時世界大戦のさなか、満州の開拓村で、三人の少女が出会う。八歳、七歳。三人とも国民学校の一年生だ。
三人は、村の城壁を越えて、遠くの寺(子どもの足で片道半日かかる)へ遠足に行くが、それが思わぬ冒険になってしまい、その間の出来事が三人それぞれの胸に残る、何十年もの間忘れることなく。
その記憶が、離れ離れの三人をずっと、相手の居場所さえも知らなかったときにも結び付けていた。


立場も違えば、育った環境も違う。ただ、無邪気で、自分が何人かということさえも無頓着な少女たちだったが、その後の彼女達の人生は・・・。
戦災孤児、在日、中国残留孤児・・・言葉にしてしまえばそれまでだ。他人ごと、きれいごとになってしまう。そのひとりひとりの人生に、今、向かいあい、思いを馳せる。


ぎりぎりの瀬戸際に追い詰められたとき、人が何ものになるのか、おぞましい一場面一場面から、顔を背けることができなかった。
それは、
「・・・そしてそれは、わたしもしかねないことだった。そういう状況だったら、だれでもしかねないこと」
という言葉がずっと胸の内にあったからでもある。


戦後七十年。けれども、この少女たちにとって、そしてその同胞たちにとって、戦争はずっと続いている。たくさんの尾ひれをびらびらつけた戦争が。
失ったもの、奪われたもの、さらには無邪気に奪っていたものの記憶がいつまでも追いかけてくる、その始末は七十年たっても八十年たっても終わらない。
政府が、人びとが、口をぬぐって忘れ去ろうとしても、今もまだ渦中を一歩一歩踏みしめて歩いていかなければならない人たちがいる。
忘れられ置いていかれて。
(いやいや、置いていかれているのは、もしかしたら、体よくわすれてきた私のようなものなのかもしれない)


三人の少女たちは、いまや七十七歳と七十八歳だ。
苦しみ、希望し絶望し、突き落とされて、それでもひたすらに生きてきた彼女たちは、再会するのだ。
「わたしね、死にたくないの。わたしが死んだら、わたしの記憶もみんな消えちゃうでしょ。そうしたらきっとなにもかも、なかったことになる。そうしたらきっと、愚かな人間は、同じことをくりかえす」
この言葉を読みながら、さらさらとこぼれていく手のひらの砂を思い浮かべている。
こぼれさってなお、残るものは何だろう。
「待ち望まれて生まれてきたわたし。誰よりも愛されて生まれてきたわたし」
「あなたはわたしの宝物」
本のなかで、何度も繰り返し表れた言葉だ。
懸命に生き続ける彼女たちの核には、きっとこの言葉がある。


自身の中におそろしい化け物が眠っていて、いざというときに目覚めるのかもしれない、と思う。愚かな人間は何もかもなかったことにして同じことを繰り返すのも事実だ、と思う。
そうなりたくない、と思うけれど、自信なんかない。
それでも(それだから)いま、かけがえのない私であり、あなたであり、一人とひとりである、ということが、小さな光のように思う。