『翼よ、北に』 アン・モロー・リンドバーグ

翼よ、北に

翼よ、北に


1931年7月から10月初めにかけて、リンドバーグ夫妻は、北太平洋調査旅行を行った。
アンは、夫チャールズにとって、妻であると同時に、シリウス号の唯一の信頼できる乗組員(クルー)であり、通信士である。
彼らは、アメリ東海岸を出発し、西北へ飛び、アラスカから極地地方をまわる。ロシア東の沿岸、千島列島、日本へと南下して、中国、揚子江に沿って内陸部へと進む。


マスコミのマイクから逃れるように飛び立った出発のとき。
エンジンの回転数があがり、フロートの底を波が激しくたたく。
そして、舞い上がる瞬間の「突然、すべての振動が消えた」に続く文章とともに、私もまたふわっと浮き上がったような気がした。空の旅に連れていってもらうのだ。
順風満帆の日ばかりではない。夜の暗黒の空から陸の目印を探す心細さ、濃霧の中の不時着、周到な準備をしてもなおの危険に、はらはらする。
三か月に渡る旅の最後は中国で、揚子江の氾濫を空からみたときに、(空からだからこそ)「洪水をとどめるなどということはもともと不可能だったのだと悟った」という。見下ろすからこそわかる川と流域の雄大さに、圧倒されてしまう。
地に下りて、被災者たちのなかにあっては、暴徒のようにならざるを得なかった被災者たちの鬼気迫るような現実に、手も足も出ないのだ。
シリウス号は、この罹災調査飛行のあとに、転覆してしまうのだが・・・


でも、そこに至るまでの、寄港地の様子、さまざまな出会いに、私は夢中になる。
カムチャッカであれこれ見聞きしたことについての記述のあとで、ロシアについての印象をアンはこのように書く。

「…しかし今、ロシアについて思うとき、わたしが考えるのは集団農場や保育園のことではない。わたしはわたしの坊やの写真を笑顔で眺めていた、カラギンスキー島での二人の女性のことをを思う。椅子を後ろに傾けて、わたしたちが日付変更線を知らずに越えたことを笑っていた男の人たちのことを思う(中略)私は思想や組織や計画でなく、個々の人間のことを考える」
ああ、そうなのだ、それなのだ、と私は一生懸命、本のこちらで頷いている。
私がこの本を好きだ、と思ったのは、そういうことがたくさんこの本から輝き出ているからだ、と思うのだ。
たとえば、植物といったら苔のようなものしか生えないような極地方の人たちの歓待の食卓。そして別れの際の・・・ああ、あのオレンジ! なんて眩しく美しい色。
濃霧に不時着した島の漁師の小屋の言葉が通じないままの、簡素だが精一杯の炉辺のもてなし。
日本の「歌う水夫たち」のボートの描写のユーモア。
氾濫した大河の調査飛行中に出会った・・・まぼろしのような「世にもうつくしいパゴダ」、そして、アメリカに帰ってから再びの出会いなおしのなんという美しい文章。


壊れてしまった愛機を置いて帰国しようとする夫婦が、日本で聞いた「サヨナラ」の響きが、私の胸にも沁みる。
何百かいも何千かいも、何万回も、口にし、耳にしてきた言葉が「そうならなければならないならば」の意である、などと考えたことがあっただろうか。
そして、ただ別れの瞬間をそのままに言葉にした「さよなら」が、こんなに美しい言葉だったなんて・・・
日本語をほとんど知らないアメリカ人のアンの文章の中で、何度も繰り返される「サヨナラ」を何度も繰り返し味わう。


また、一方で、最近の「もてなし」という言葉に感じる苛立ちをまた思いだした。
もともとの意味を置き去りにして、ある言葉がスローガンみたいになってしまうと、なぜあんなにも空々しく、嫌らしくなってしまうのだろう、ということを。
リンドバーグ夫妻は、寄港地ごとに、歓迎を受け、もてなしを受ける。
けれども、アンが格別の思い出として記録にとどめているのは、空々しい何かではない。
言葉にする必要もない「もてなし」の心が、あちこちで名もないままに、小さな光を放って居る。何と美しいのだろう・・・


この旅のあとに、愛児の誘拐と遺体での発見、というあまりに惨たらしい事件が起こったこと、この本の出版の二年後には第二次世界大戦が始まったことなど(訳者あとがきによる)を知り、なんともやりきれない気持ちになってしまう。
そして、この記録は、よりいっそう美しく、かけがえなく感じられる。本のなかの『世にもうつくしいパゴダ』の話がそのまま、この本の佇まいに重なるようだ。

>・・・久しく忘れていた旋律が胸のうちで響きだしたように、話を聞くうちにわたしの胸はいやおうなしに高鳴った。
そうした調べを前にするとき、人はただ静かに佇むばかりだ。自分のほうに踊るように近づいてくる、その調べを畏れをもって、あるいはこよない歓びをもって待ち受けるばかりだ。無理に引き寄せることはできない。夢中で一歩踏み出すことで、調べは怯えて逃げ去ってしまうかもしれない。