『石垣りん詩集』 石垣りん


たとえば、「鍋とお釜と燃える火と」の前に、わたし自身もすすんで立ってきた。
何も考えずに、母や祖母とおなじように。それは居心地のいい場所だった。
遠い昔、誰かが、わたしたち女の前にそれを置いたのだとしても、そこにいることを女に強いたのだとしても。
長く鍋とお釜と火とを相手にしてきた女が、別の何かについて語るなら、そういう女でなければ語れない言葉がある。


戦争や原爆や、公害や、貧困や・・・
ああ、そういう言葉も違うかな。
わたしなんかが、そういう単語にまとめようとしたら、ユニフォーム着ているみたいになっちゃって、石垣りんの詩から一番遠いところにいってしまうような気がする。
きれいな言葉も、スマートな言葉も、ない。甘やかで口どけのよい言葉はひとつもない。
ざらっとして、ごつごつとして、ぶっきらぼうで不親切な言葉たちだ。
言葉は怖いほど鋭いけれど、刃物を連想させはしない。
むしろ使いこんだ道具。それこそ、母や祖母から受け継いだ鍋や釜のような。
石垣りんの詩を読みながら、私はやっぱり、鍋や釜が、彼女の詩には一番ふさわしいと思った。


りんの弟が出征するときに、叔母が弟にかけた言葉は、当時のものさしでいえば非国民の言葉だったそうだ。それを彼女はずっと忘れていない。
「私が聞き捨てたはずの言葉を耳が大切にしまっていて、今日でも、何かの暗示のようにとり出して見せるのは、それがほんとうのひびきを持っていたからだと思います。」
ほんとうのひびきってなんだろう。それはずっと後になって、いろいろな言葉が砂のように流れ去ったあとじゃなければ、わからないのかもしれない。


南のどこかの国へ行こう、という話が知人たちの間ででたことがあるそうだ。
言葉の違う国で、「これから習いおぼえる貧しい言葉で、生きてゆくことは出来ないだろう」と、りんは思ったそうだ。
「私のふるさとは、戦争の道具になったり、利権の対象になる土地ではなく、日本の言葉だと、はっきり言うつもりです。」