『14番目の金魚』 ジェニファー・L・ホルム

14番目の金魚

14番目の金魚



少女が、共同研究者として、変り者のおじいちゃんを手助けするうちに、科学の面白さ、科学の考え方に目覚めていく・・・
しばらく前に読んだ『ダーウィンと出会った夏』(ジャクリーン・ケリー)を思いだしている。
ダーウィン…』は、1899年の物語。テキサスの田舎に暮らす少女が、科学の道を志しても、その道を思うままに進むには、なんと障害が多かったことか。
新雪の上に真新しい足跡をつけて立つ少女の姿が蘇ってくる。

そして、『14番目の金魚』は、『ダーウィン…』の時代から100年以上あとのカリフォルニアが舞台。
エリーは、科学者のおじいちゃんの研究を手伝うことになってしまう。
これまでエリーにとっては、おじいちゃんとも、科学とも、ほとんど接点がなかった。
それなのに、こういうことになったのは、おじいちゃんが突然、ちょっと信じられないような姿でエリーの前に現れて、一緒に暮らすことになったせいだ。
最初は仕方なく、おじいちゃんの研究に付き合っていたが、だんだんに科学の面白さに目覚めていく。科学というものが、案外身近なものであることにも気がついていく、
目の前に一つの扉が開き、どんどんその世界に嵌っていく少女の姿をみるのは、気持ちがいい。
ダーウィン…』の少女の時代1899年に比べれば、現代っ子エリーは、どんな方向にも、今、思うままに足をのばすことができるのだ、自由に。

だけど、本当に自由なのだろうか?
自由にみえて、実は見えない壁が、本人にも気がつかないうちに設置されていて、気がつかないまま、求められる方向に進まされていることがあるんじゃないかな、とふっと思う。
たとえば、オッペンハイマーを中心にした科学者グループがつくった原爆が、第二次世界大戦を終わらせたのだ、ということばは、アメリカでは、ごく普通の考え方のようだ。
伝え聞いた言葉を鵜呑みにすることは、「科学」から本当はとっても遠いところにあるのかもしれない。
その道をまっすぐ突き進んでいったなら、・・・科学であろうと、他の何であろうと本当はものすごく怖いことじゃないだろうか。
ほかならぬ自分自身をどんどん狭い世界に追い込んでいき、いずれ、身動きできなくしてしまうのではないだろうか。
(自戒をこめての思いです)

エリーの心は柔らかい。
興味を持ち、学べば学ぶほどに、観察すれば観察するほどに、どんどん考え深くなっていく。そして、いろいろな方面から、今までなんの疑問も持たずに受け入れてきた、いろいろな「当たり前」の前で立ち止まる。
彼女の立ち止まりが、好きだ、素敵だ、と思う。

どんなにすごい研究もそのゴールは、「完成」ではないのだな、としみじみ思う。それこそ科学でなくても。なんでも。
「我われの最大の責任は、よき祖先になることだ」
噛みしめたい言葉に出会った。

最初に出てきた13匹の金魚の話って、いったい何なのだろう、タイトルの「14番目の」って、いったい何なのだろう。
ずっとそう思いながら読んでいたけれど、そういうことだったんだね、とわかったときば、なんて爽快だったことか。