『黒と白の猫』 小沼丹

黒と白の猫

黒と白の猫


朴念仁と呼びたいような男で、たまにこういう人と席をともにすると、私は「苦手だなあ、苦手だなあ」と思いながら、なんとか会話をつなごうとする。わたしだって口下手なんだからね、少しは会話に協力してくれないかな、と思いつつ、やっとひねり出した会話の糸口をそっけない言葉で断ち切られ、辟易としたりする。
あんな苦虫噛みつぶしたような顔しているけれど、こちらに悪意をもっているわけではないらしいし、律儀で真面目な人らしい。それはわかっているけれど、ね。
・・・そんなあの人に似た大寺さんが主人公の連作短編集。大寺さんは著者の分身らしい。


短編といっていいのだろうか、むしろ著者の身辺の記録、といったほうがいいだろうか。
どっちでもいいや・・・わたしは、何も特別なことが起こるわけでも無い、ごく普通の日常を端正な言葉で読むことに、ほっとしている。
朴念仁の大寺さんであるから、ときどき、やる事がまわりとずれていたり、相当独りよがりだよね、とあきれたりもするけれど、この人にとってずれているのはきっと世間のほうなのだろうな。
憮然としてわが道をいく彼は、なんだかちょっとユーモラスで、ちょっとかわいらしいのである。
(この困った人の言動をさらりと受け流し、しなやかにわが意を通す妻や娘たちの賢いこと、美しいこと)


ごく普通の日常、と書いたが、ほんとうは、それも違うよね、と思う。
大寺さんのまわりはなんて静かで寂しいのだろう。こころを通じ合わせた人たちは思いもよらないときに、あっというまに儚く亡くなってしまったりする。
大寺さんは、亡くなった人を惜しむようなことばをあまり発しない。亡くなることに動揺しながらも、そして、あとからそのことを振り返りながらも、相手に対する思いはなんてそっけないのだろう、と思うくらいに。
この人はきっとそういうふうにしかできないのだな・・・


会えば、うんと苦手(であろう)人が、こうして本の中に一人いると、不思議と慕わしさのような気持が湧き出てくる。
大寺さんは大きな木のようだ。味気ない大地の上で、すっくと立ち、そうして立ち尽くす以外、何もできない。それしかないから律儀に立ち尽くす。きっと、いつか自分が倒れ果てるまで。
そうして、その樹は、やっぱり孤独なのだ。寂しいのだ。ひとりもくもくといきていくことは、周りの情景がかわってもなおこれまでとおなじように生きていくことは、なんて寂しいのだろう、と感じてしまう。