『まんげつの夜、どかんねこのあしがいっぽん』 朽木祥/片岡まみこ

まんげつの夜、どかんねこのあしがいっぽん

まんげつの夜、どかんねこのあしがいっぽん


気まぐれだけど、やさしくて、マイペースな猫、猫、猫の集団は、案外からっと気持ちがいいもんじゃないか、と思ったり、
にっちもさっちもいかない状態にあるのに、面白そうなものを見聞きすると、つい我を忘れて参加している姿をみかければ、まあまあまあと笑ってしまう。
どかんを中心にした猫の集会(?)が、そして、どかんの反応(?)が、とぼけたようで、なんとも味のある可笑しさではないか。、
それはたとえば、お日様の下で「わはは、わはは」と大きな声で笑う可笑しさではない。
たとえば、夜に、満月を浴びながら、「ほろほろほろ、ほろほろほろ」と歌いたくなるような、ちょっと沁みるような可笑しさなのだ。
朽木祥さんの物語は月が似会うと思う)
そして、このしみじみとした可笑しみは、片岡まみこさんの挿画がとてもしっくりくるのだ。版画の、素朴な線や、かすれたような微妙な色合いが。


主人公はひとりぼっちの寂しいノネコ。
この子の寂しさは、奥へ奥へわけいっていくと、濾されて、なにか純で豊かなものが残るような気がする寂しさ。
たとえば、この子のテーブルのごちそうみたいな。
ノネコのテーブルに並ぶごちそうは、どれも手間のかかった、すみずみまで神経のいきわたった料理だとおもう。
おいしそうなごちそうを見ながら、この繊細な一皿ひとさらが、寂しさの結晶みたいだ、と感じてしまう。


朽木祥さんの描く寂しさは、深くて(こんな言い方をしてしまっていいかどうかわからないけれど)「豊かな」寂しさだ、と感じる。
だって・・・この「寂しさ」には、簡単に捨てたり忘れ去ったりしてはいけないような何か美しいものが隠れている。
でもそれが何かはっきり言葉にできないままに、私は、この寂しさをときどき浴びたくなる。
寂しいことを美化しているわけではない。寂しいのはどうしたって寂しい。持て余してしまう。
でも、捨てて失くしてしまうことのできない寂しさなら、どうにか付き合っていくしかないじゃないか。


一人上手な猫たちだって、ほんとうは寂しいのだろう。だから集まるのかもしれない。
それは寂しさを忘れるためじゃなくて、自分の寂しさのありかを確認しあうためかもしれない。
躍りの上手な子も、やんちゃな子も、おしゃれ者も、知恵ものも、心のどこかで寂しさをもてあまして、やりきれない思いでいるのではないだろうか。
寂しさを捨てたり、忘れたりするのではなくて、いっそ大事にしていたら、磨きがかかって何か美しいものになるかもしれないなあ、とか・・・
料理するノネコのうしろで、遠くから聞こえる歌声を聴きながら、ぼんやりと思っている。
今度の満月はいつだろう。