『コーカサスの金色の雲』 アナトーリイ・プリスターフキン

コーカサスの金色の雲 (現代のロシア文学)

コーカサスの金色の雲 (現代のロシア文学)


自分の誕生日を知らない、というよりも「誕生日」という言葉さえ知らない。そんなことどうでもいい。問題なのは今、少しでも腹に入れられるものを手に入れられるかどうかだ。
双子のコーリカとサーシカ。二人合わせてクジミン兄弟。孤児院育ち。
1944年のモスクワで、多くの孤児たちと同様、まともな食べ物もない日々を生き抜くため、盗みやかっぱらいは、お手のもの。
二人の息のあったコンビネーションに舌を巻き、その作戦の見事さ(?)や逞しい行動力を見ていると、なんだか元気になってくる。


コーカサスの新しい(?)少年院(孤児院)に移住者として、子どもたちも送られることになる。
そのなかに、クジミン兄弟もいた。
学校で習ったミハイル・レールモントフの詩『巌』や、煙草の箱の絵で知る、コーカサスは、あこがれの地であった。
すきっ腹のまま、まともな弁当も持たされず、列車で何日も何日もかかる旅に出された子どもたちが、おとなしくしているはずもない。目的地に生きて到着するために、画策し、身体を張る。
「戦争で破壊され、ファシストが去った後、まだ生き返る間もない大地」を「驚くほど屈託ない底抜けに陽気な」子どもたちの電車が走っていく。


コーカサス。その新しい村。
果樹園の木々には果物がたわわに実り、黒土の畑には収穫するばかりのトウモロコシやジャガイモ、カブ。牧草地には山羊や牛たちもいる。
そのむこうには、高い山々がそびえ、レールモントフの詩のままに、雲がかかっている。
何と美しい大地だろう・・・
食べ放題、盗み放題。疲れも満腹も知らないエネルギーがわあっと突進しても作物は取りつくされることもない。
おなかいっぱい食べる、ということを知らない子どもたちは、次々に腹をこわすほどの天国。


のはずなのだけれど・・・何か変だ。
不気味なのだ。
人間がいない。畑にも果樹園にも、誰もいないのだ。ここにいる大人たちは、孤児たち同様、よそから「連れてこられた」人たちばかり。
この静けさはなんなのだろう。


物語に時々顔を出し、孤児たちと同じ体験をした作者(?)「私」は、汽車の旅が始まった時点で振り返り、語る。
後年、この列車に乗った仲間の少年たちを探し出そうとして、ほぼ25年に渡って、あらゆる手立てを尽くしたが、誰一人答えるものはいなかったという。500人も乗っていたのに。
・・・それは、どういうことだろう。
列車の旅の途中でコーリカが見た不気味な列車は何。家畜のように詰め込まれた子どもたちの目、目、目・・・そして、外にいるコーリカに向かって発される声。
入植地の大人たちの「ここは怖いところだ」という言葉は何。


私は、子どもたちのハチャメチャさが好きだ。野生的ななしたたかさが好きだ。小狡いところも、節操のないところも。そのくせ、妙にけなげで、義理堅いところも好きだ。
この物語の少年たちは、それらすべて兼ね備えて、そのエネルギーはどこから湧き上がってくるのか、と不思議になるほど活動的だ。
だけど、彼らのエネルギーは、地に噛み合っていない。生気を奪ってしまうような不穏な気配がこの地には満ちている。
いったいどういうことなのだろう。本当にこの不気味さは何。
その答えはだんだんわかってくるのだけれど、そして、わかってきたときは、取り返しのつかないものが次々に、無残に失われていくのだけれど・・・


1944年、スターリンは、この地方に住むチェチェン・イングーシの人びとを反ソ的な民族として、カザフスタンキルギス強制移住させたのだった。
騙し、わずか10分で支度させ、無理やり汽車に詰め込んだのだという。
この静けさ。よく手入れされ収穫を待つばかりの畑。家畜。暮らしの道具も貯蔵品もそっくりそのままの無人の家々。すべてが無人で残された。
モスクワから「移住者」として子どもたちが連れてこられたのはそういう場所だったのだ。


これでもか、と続く、激しい怨みと憎しみが、「何も知らなかった」「どうしようもなかった」という言葉を引き裂いていくようだ。
次々に胸を衝かれるような出来事に出会うたび、でも、これと同じことが、もっとひどいことが、逆の方角から逆の方角に向かって行われていたのだ、ということを浮き彫りにするようだ。
こうしたことを見せてくれるのは、子どもたちの目。「何も知らなかった」しかし曇りのない目。
したたかに逞しく、そのくせ妙にまっすぐに生きている少年たちだったのだ。


この作品の著者プリスターフキンはロシア人。この作品は映画化されるのだ。チェチェン・イングーシの監督の手によって。それが、この物語の外に描かれた微かな希望のように感じる。
そのことが、物語の最後で寄り添い合った「あの」クジミン兄弟(ほかでもない「あの」)の姿に重なる。