『黒檀』 リシャルト・カプシチンスキ

黒檀 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

黒檀 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)


>アフリカ――とわれわれは呼び慣わす。だが、それは甚だしい単純化であり、便宜上の呼び名にすぎない。現実に即するなら、地理学上はそれとしても、アフリカは存在しないのである。
ざっと数えて17か国だろうか。1958年から四十年間の、おのおのの国で見た景色、出会った事件、その背景、そして出会った人びとと、体験、語られた物語など・・・
アフリカ、という呼称が甚だしい単純化だ、ということはわかる、と思う。(だって、この広さ!)
でも、それぞれの地域の地理や、人びとの暮らし、習慣、宗教などの違いに目を止めれば止めるほどに、アフリカというこの大きな大陸に共通するもの(乱暴かもしれないけれど)があることもまた、読むほどに感じる。
たとえば、白人たちによる奴隷狩り、そして、欧州の植民地として、アフリカ全土が無造作に分割されたこと。
そうした歴史があとあとまでもずっと尾を引き、その後の各地域(氏族)の苦しみ(戦争、内戦、圧政、差別)に混ざり合う。
奴隷貿易を担ったのは、主として、ポルトガル人、オランダ人、イギリス人、フランス人、アメリカ人、アラブ人、そして彼らに協力したアフリカ人である。彼らはアフリカの住民を根こそぎにして、人口の減少を招き、この大陸を無力な植物状態に陥らせた。その痕跡は、こんにちも残る。アフリカは、あの悪夢、あの悲惨から、いまだに立ち上がれないでいるのだ。
ルワンダの二つのカーストの対立。
タンガニイカのもと白人居住区の今。
リベリア、黒人統治者によるアパルトヘイト。地獄をかけめぐるドブネズミ・・・
憎みあい、対立し合う民族や宗教。そして、そこに自国の利益を見出そうとする欧米やアジアからの干渉、などが、アフリカじゅうの国を、地域をめちゃくちゃにして、人びとをバラバラにしていく。
暴力と復讐の連鎖のすさまじさに、思わず顔をそむけたくなる。傍観者としての恥を情けなく感じている。
>ぼくはワルシャワの子どもらに、アフリカの話をしたことがある。ちいさな坊やが立ち上がって質問した。「あのう、人食い人種は、たくさん見ましたか?」と。この坊やは知る由もないだろう――ヨーロッパから戻ったアフリカ人が、ロンドン、パリなど〈ムズング〉の住む街の話を、カリアコーでするとしたら、アフリカの同じ年ごろのチビちゃんの口から、そっくり同じ言葉が出ようとは。「向こうで、人食い人種を、いっぱい見た?」


一方、本のなかからときどき吹いてるアフリカの風や、深い夜の闇の静けさに出会うたびに、深い喜びがわきあがってくる。
センチメンタルを遮断しつつ、果てしなく暗く豊かな世界が、目の前に開ける。
四十年間の、のべ八年間をアフリカの各地で過ごした著者。
ぞっとする数々の場数(クーデターに巻きこまれたり、あっというまにパスポートを奪われたり、結核にかかったり)を踏みながら、やはり、それでもアフリカに戻らずにはいられなのだ、と感じさせられる多くの件が好きだ。
1958年、初めてガーナの街路に立った時、熱風のなかで感じた町の賑わい。
バスが満員になって走り出すまで何時間でも座ってじっと待つ人びとの横顔。(アフリカにはアフリカの時間が流れる)
砂漠や森の空気、象の死に場所、出会った人びとが語る物語、
そして、ものが壊れたら永遠に壊れっぱなしの世界、
井戸の物語、暗い夜の村の匂い・・・


ときには、よみながら「なぜそうなのだろう」「そんなばかな」と思うこともある。そう思うことが変なのだ、おかしいのだ、傲慢なのだ、と同時に感じている。
私の持つ価値観、常識は、絶対ではない。少なくとも、この世界では通用しないのだな。

>アフリカは、アフリカ自体のために、アフリカ自体として、存在している。ほかのどこにも似ていない。
という言葉をゆっくりと味わうように読んだこの一冊。
アフリカは容易に受け入れてはくれないが、ひとたび魅せられれば、きっとずっと追い求めずにいられなくなる世界なのだろう。