『ムシェ 小さな英雄の物語』 キルメン・ウリベ

ムシェ 小さな英雄の物語 (エクス・リブリス)

ムシェ 小さな英雄の物語 (エクス・リブリス)


ビルバオ・ニューヨーク・ビルバオ』以来、深刻なスランプに陥っていた作家ウリベは、様々な軌跡を経て、スペイン内戦の折に海外に疎開した大勢の(嘗ての)子どもたちのの話に出あい、それがスランプを抜け出すきっかけとなる。
そして、
そのうちの一人カルメンチュ・クンディン=ヒルにいきつく。
彼女は、1937年五月から六月にかけてヨーロッパ各地に疎開した一万九千人の一人で、わずか八歳で、ベルギーのヘントに渡る。
彼女を引きとったのは、ひとりの社会主義者、まだ歳若い青年ロベール・ムシェ。
(私には、彼が『チボー家の人々』のジャック・チボーと重なる。)


ウリベは、ロベール・ムシェの娘カルメンに会いにいき、ロベールの遺品を見せてもらい、父やその周りの人びとの話を聞く。
父がバスクの少女を家に迎え入れた七十年後に、バスクの作家が彼のことを書こうとしている。彼女は、それも巡り合わせだと思う。
「ただし、伝記ではなく、生き生きとした小説をかいてください」という。(「訳者あとがき」による)
私はこの箇所を何ということもなく読み流してしまい、そのまま忘れかけていた。
しかし、最近読んだある評論のなかで、「虚構」である物語のうちに「真実」をそのままの形で混ぜる意味について語られているのに出会った。
そのときに、『ムシェ』の娘カルメンの「伝記ではなくて小説に」という言葉がふいによみがえり、はっとした。そうだ、なぜ小説なのだろう、なぜ伝記ではなく?
真意はわからないけれど、でも、なぜ、と思ったときに、小説が持つ計り知れない力が迫ってくるような気がした。作家ウリベと、ムシェの娘カルメンとの、小説へのゆるぎない信頼に、立ち会ったような気がした。


ナチスがヨーロッパじゅうに支配を広げている時代、それから、もうすぐそれも終わろうとしているころ・・・
残された膨大な蔵書、引き裂かれた手紙、列車から飛ばされた紙切れの伝言、日記の長い空白、短針を失くして止まったままの腕時計・・・
脈絡もなく広がるさまざまな断片と、人びとの記憶のかけら。並べようもなくとっちらかったそれらを、作家は丁寧に広げ、並べ替え、彼と彼の周りにいた人々の姿を少しずつ少しずつ小説として織り上げていく。
過去の記憶達は、まだ今の世に目覚めさせられたばかり、の感じでぼんやりとしている。ところどころ鮮やかに見え始めた情景から点々と描写されているような印象だ。
それを読む私は、戸惑いつつも、ぼんやりとあれこれが模様のように浮かび上がってくるのを心地よく感じている。
前作『ビルバオ・ニューヨーク・ビルバオ』の膨大な物語が年輪のように広がって大きな樹の姿が浮かび上がってきた、あの時の感じを思いだす。
このたびの物語の輪が浮かび上がらせるのは、人の姿。人びとの姿。


ロベール・ムシェは英雄であっただろう。名もなき多くの英雄たちの一人、小さな英雄だった。多くの(その時代にどうしても必要とされ、すぐに忘れられようとした)英雄たちの一人だった。
しかし、英雄、とはほんとうは何だったのだろうか。だれのことだったのだろうか。
カルメン。ヴィック。ヘルマン。ロベールのかけがえのない彼ら。彼らの苦しんだ日々、遺された日々、死んだ人を死なさない日々が、そう、その長い日々と時間の一刻一刻が「英雄」のように思えてくる。


そして、再び、カルメンの「伝記ではなく小説に」という言葉を思い出す。
小説が描こうとしたものは、一人の人生に留まらない。一人の人生を語ろうとすれば、その周りの人びとについて、より深く語ることになる。
物語が、すでに消え去ってしまった人たちに命を与える。永遠に消えない命を与え、必要とする人びとを生かし、生かし続ける。
そういうことなのかな、と考えている。
(たとえば、作中に引かれたヴィックの日記の一部。彼女はあのことが起こってから、日記を付け始める。彼女がどんなに長い一日一日を耐えていたことか、それが終わることを待って居たことか、言葉の一節一節から、あまりに苦しい祈りが伝わってくる。しかし、その日記の最後のページはこれまでとは違っているという。でも、その日記は引用されない。する必要がなかった。書かれなくてもわかりすぎるくらいにわかるから。物語は、きっと「書かれない」ものを読むものでもあるのだろう。)


ロベールがひきとったカルメンチュは、後にバスクに送り返される。そのことをロベールはずっと後悔しつづける。連絡が途絶えた彼女のことをずっと忘れることはなかったそうだ。
物語のなかから消えてしまったカルメンチュはどこかで生きているのだ。彼女の人生は途絶えることなくずっと続いていた。
彼女は、この物語の人々のその後のことは何も知らず、里親ロベールがどうなったかも、自分のことをどのように思い続けていたかも知らず、それでも人生は続いていたのだ。
もともと読者の私には、彼女はあまりに影がうすい存在だった。彼女がロベールとともにいたときさえ、存在感はあまり感じなかった。
彼女は何を感じ、何を考えたのか、彼女の里親家族のことを本当はどう思っていたのか、本当の家族から離れて遠く旅したことも、再び里親家族から離れて遠く旅したことも、そして、なぜ音信が途絶えてしまったかも・・・
だけれど、そのうすい影のまま、物語が続いている間中、どこか遠いところで自分の人生を生きている。生き切って死んでいく。
そのことがなにかしら不思議な気がして、今、わたしは彼女の存在が、物語を照らす灯のように思えてくる。