『角野栄子さんと子どもの本の話をしよう』 角野栄子, 高楼方子, 富安陽子, 荒井良二, 金原瑞人, ひこ・田中, 令丈ヒロ子, あべ弘士, 穂村弘


「あらかじめ」の決め事は一切無しの自由なライブ形式の鼎談が四回。
最初に参加者は自己紹介をする。三つの自己紹介をするが、一つだけが本当で残りは嘘。どれが本当かをほかの参加者があてるのだけれど、本当噺も嘘噺も、そろって法螺話みたいで、もっと続きを読みたいと思った。さすが作家さんたち。


子どもの本を書く作家たちが、子どものころのことをよく覚えていて、自分の子どものころの思い出が、物語をつくる核になっている、という話は、少し前に読んだケストナーの『子どもと子どもの本のために』(感想)の「優れた文筆家は、どんな特殊な才能が付け加わったら、すぐれた子どもの本の著者になれるか」との問いかけに対するケストナーの答えと共通している。


方言で書くこと、一人称・三人称で書くこと、外国語と日本語の違い、短歌、詩、絵本、幼年童話、オノマトペ・・・
作家や翻訳家の苦労を偲びつつも、自分が普段何気なく使っている「言葉」の豊かな広がりを示してもらい、驚いたり、わくわくしたりした。
最近、なにかと恥ずかしくて情けなく思うことが続き、誇りなんてもう持てないやと思っていた。素っ頓狂な声での「ニッポンこんなにすごいぞ」のしらじらしさは、たまらないと思っていた。
でも、こんなに豊かな言葉の世界を見せられて、ああ、わたしは仰ぎ見る窓を間違えていたかもしれない、と思った。こちらの窓から見える風景をもっともっと良く見たい、と思った。


たとえば。
門、扉の話が心に残る。本の最初のページは、日本では「ファーストページ」ではなく「扉」である、ということを気づかせてくれたことに感謝。
日本語の豊富なオノマトペの話も。さまざまなオノマトペが状況を音や匂い、そしてその場にいる人の感情までも見事に表していることに、驚き、感動している。即興言葉遊び「音をつくる」では、作家たちの言葉とその向こうに広がるイメージを味わった。
まさに言葉は生きている。血の通った柔らかな生き物のようだ。こんなに小さな本に挟まれているのに、なんて元気なんだろう。


けれども、ビートルズ以前と以後のイギリスの言葉ががらりと変わった話から、言葉が変わっていくことについて角田栄子さんはこのように言う。
「・・・日本だって、変わりますよ。みなさん、いまの日本で使われている言葉が、これからどう変わっていくか、よーく注意深く見たほうがいい。それはほんとうに短い期間で変わる。私は戦争を経験しているから。言葉の意味は、用心深く考えたほうがいいと自分では思って暮らしている。」
心に留めたい大切な言葉だった。
(別の場面で「言葉の意味っていうのは、つきつめて考えると、はっきりいっちゃうと、イデオロギー的なものを持っているでしょ」とも)
・・・明らかにおかしい、という言葉ではなくて、どこも間違えていないはずなのに、なんだか気持ちが悪い、でもどこが?と思うような言葉がちらほらと見えないだろうか。私はいつのまにかそういう言葉を使っていないだろうか。
生きた言葉たちを飼いならし、無理させて死なせて、死んだ言葉をどうしたら美しく見えるだろうと、一生懸命並べたり、並べかたが上手ねと手を叩いたりしているような、そんなイメージを思い描く。


もりだくさんの話題(みんな、言葉に関わりがある)・・・本当はもう少し詳しく語ってほしい話題がたくさんあった。
でも、時間に限りあるライブ形式の鼎談、ということで、さらりと終わってしまったことがちょっと寂しかった。