『岸辺のヤービ』 梨木香歩

岸辺のヤービ (福音館創作童話シリーズ)

岸辺のヤービ (福音館創作童話シリーズ)


気がかりや不安事は沢山あるけれど、それでも、暮らしのなかで、ときどき、ママ・ヤービのように「世界はなんてすばらしいんでしょう!」と言いたくなるような瞬間に出会えるのだ。何度も何度も。
そういう世界にいられることを喜び、感謝したい、と思う。
物語は、穏やかな文章で、丁寧に語られる。舞台はマッドガイド・ウォーターと名づけられたいのち豊かな湿地帯。


この喜ばしくも愛おしい物語は、実は、深刻な問題を提示している。
・・・とはいうものの、こちらの肩をつかんで強くゆすぶるような物語ではないのだ。
物語は静かで、控え目だ。受け止めるか受け止めないかは、読者にゆだねられているような気がする。
そのぶん、なんだか、とても寂しいところに(寂しくて美しいところに)ぽつんと置いていかれたような気がする。置いていかれた感を大切に味わいたいと思う。


児童書においては、主人公(子ども)の成長(変化)の物語である場合が多いと思う。
けれども、この物語の主人公――ヤービ族(水辺に棲む、ちょっとハリネズミに似た大きさ、姿の、妖精のような種族)の少年ヤービ(ヤービ族のなかでも異種間交流のできる少年。そのため、「大きな人」ウタドリさんと知り合う)は、この物語のなかで成長するわけではない。
いろいろな「事件」は起こり、ヤービは、仲間とともに、そのときどきに考え、冒険したりするのだけれど、彼に大きな変化は訪れていない、と思う。(この本はシリーズの一番最初の物語なので、これから先は、何があるかわからないけれど)
ヤービは、むしろ「変化」の証人としての役割を負っているのかもしれない。
物語の本当の主人公は、彼らが住むこの水辺、マッドガイド・ウォーターなのかもしれない。
様々な理由で、多くは「大きい人」のせいで、この土地はずいぶん変化しつつある。
そして、そのために、波風がたち、静かに暮らすこの土地の生き物たちも、自分たちの暮らし向きを考え直さざるを得なくなってきているのだ。


この物語の語り部であり、ヤービの話の聞き手でもあるウタドリさんは、ほとんどの場合ボートの上にいる。
ボートの上にいて、地面に足をつけないことにより、この土地のそとからの「お客様」のように、わたしには思えた。(それは呑気な私に重なる)
でも、最後のほうのヤービとウタドリさんの会話に、そうではないことを思いださせられるのだ。
「ヤービ、あなたもわたしにとってはすばらしいマッドガイド・ウォーターの一部ですよ」
「ウタドリさん、あなたも、マッドガイド・ウォーターですよ」
・・・わたしもまた私を囲むこの世界(環境)をつくりあげる一部なのだ、ということを今のいままで忘れてしまっていたこと、そして、ウタドリさんの舟よりももっとずっと水とも土とも遠いところにいることに、気がつく。


命あるものを食べて生きているわたしであるのだから・・・。


忘れる、ということが、変化の原因なんじゃないだろうか・・・
覚えていたくないことや、考えたくないことを、忘れたままにしておくこと、思いださずにすむようにしてしまうことは、思いもかけないところに繋がり、思いもかけないところから、取り返しのつかない綻びを生むのではないか。不安が膨れ上がってくる。


そして、そんなふうに考えた時、変化する環境の証人(?と私には思われる)ヤービ(と、その一族)の存在はどんなに心強く感じられるか。彼は最初から最後まで変わらずにそこにいる。
そして、絶妙なバランスから生まれ出る「世界はすばらしい」という言葉を大切に味わおう。