『銀のほのおの国』 神沢利子

銀のほのおの国 (福音館文庫 物語)

銀のほのおの国 (福音館文庫 物語)


たかしとゆうこの家の壁にかかっていた剥製のトナカイの首。
でたらめなよみがえりの呪文で本当によみがえったトナカイを追って、二人は異世界(ものを言う動物たちの世界)にとびこんでしまった。
元の世界に帰る道を知るために、逃げ出したトナカイ「はやて」の後を追ううちに、いつのまにか二人は、トナカイと青イヌの戦争に巻き込まれてしまう。


胸おどるファンタジーか、といえば、そのとおり、次々思いがけない事態が起こり、目を離すことができない。
その一方で、物語の情け容赦ないことに驚いている。
食うものと食われるもの、殺すものと殺されるものの厳しい掟から、目をそらすことが許されない。(たとえ子どもであっても!)
二人の子どもに関わってくる動物たちの誰が敵でだれが味方なのか、わからなくなってくる。何を信じていいのかわからなくなってくるのだ。
例えば、こういう言葉がいきなり出てくる・・・
「……あいつには自分で道を切りひらく力があると信じたまでのことだ。あいつを売りわたしたとは思っちゃいねえ……」
細々と暮らす小さな生き物なのだ。何もなければ正直な働き者であったはずの。
(罪の意識から解放されたくて)自分自身をまるめこもうとする言葉であると思う。小市民的な卑劣さにこんなに胸が悪くなるのは、この小さな動物は自分ではない、と胸を張って言える気がしないからだ。


物語は終わる、おさまるところにおさまった、というべきか・・・しかし、本を閉じてなお、重たい課題を背負わされたようで、心は軽やかにはならない。
「だけど、生きるということは食べることなんだ……だれがきめたんだ。食べなきゃ生きられないってことをさ!」という叫びが心に残る。
食うものは食われることを約束されている、ということであり、殺すものは殺されることを受け入れなければならないのだ。命の掟の厳しさに、なぜ、と問いかけずにいられないではないか。「死はほろびに通ずるよりも、さらにゆたかな生につながるのだ」という言葉が出てくるが、それだって、答えにはなっていない。
思いだすのは鳥山敏子著『いのちに触れる』(感想)で、そもそも自分が、他の命を受け取って生きているのだ、ということを実感として感じられているのだろうか、と考える。努めて意識しなければ、命を食べているのだ、ということをずっと忘れて暮らしてしまえる、今の「文化的な暮らし」
「青イヌが食う肉とおまえさまが食う肉と、どこどうちがうか、わかるかの」
答えのない問いかけがいつまでも聞こえてくるようだ。・・・わたしには答えられない。
他者の死を自分自身の命に変えるという目的もないまま、同族同士で殺し合う人間が、この物語のなかの「青イヌ」とどう違うだろうか。
一度始まってしまった物語は終わらない。考えることをやめることはできない。