『増山たづ子 すべて写真になる日まで』 増山たづ子/小原真史・野部博子(編)

増山たづ子 すべて写真になる日まで

増山たづ子 すべて写真になる日まで


徳山村にダム計画が持ちあがったのは1957年、それが本格化したのが1977年で、ついに廃村となったのはさらに十年後の1987年だった。
互いに協力しあい助け合いながら農業を続けてきた山間の小さな村がダム計画に揺れ、推進派と反対派に分かれていがみ合う。

>昭和三十二年から今年はダムになる、来年はもう村におれんようになると、蛇の半殺しのような長い歳月を過ごした。あまりにも延び延びになったので、村民はクタクタに疲れ果てていた。
>長い年月がな、人間の心を変えてしまうんだな。
いつのまにか反対する人は一人もいなくなってしまったのだそうだ。
もうすぐ先祖代々の大事な物全部なくなるぞ、田畑を作るも屋根を葺き替えるも今やっても無駄になるぞ、と思いながら、何年も何十年も暮らさせられたら、疲れるなんてものではないだろう。内側から壊れていくのは無理もないことだ、と想像する。
「蛇の半殺し」か。これは奪う側の恐ろしく残酷な息の長い作戦のように思えて背中が寒くなる。


戦争で弟と夫を失ったたづ子さんは、「カメラばあちゃん」と呼ばれ、トレードマークのピッカリコニカを携えて、村中の写真を撮り始める。
「国のやることには勝てんからな、戦争もダムも、大川に蟻が逆らうようなことをしとってもしようがないで」という。
村は廃村になった。
と、ひとことで言ってしまうけれど、住民が、移転のための補償基準に調印する、ということは、調印後八か月以内に、家主自ら家を取り壊して、焼いて、村を出る、ということを承諾することなのだった。
その移転の様子も、家々が壊されていく様子も、煙になっていく様子も、さらに、花咲く木々が根っこごと持ちあげられ倒されていく様子も、人びとが日夜手を合わせてきた山のお社が転がされて放置される様子も、たづ子さんのカメラは写していくのだ。
「残しておきたいという気持ちは、あきらめからきてるもんだな」という・・・。


けれども、たづ子さんの「あきらめ」という言葉は、絶望とは違うような気がする。
この写真の中に写されているものはなんなのだろう。
プロのカメラマンの写真ではない。普通の記録写真とはちょっとちがう。
例えば人。まるでうれしい日の家族の記念写真のように、カメラの方を向いて、並んで、直立して笑顔で居る人びと。家庭のアルバムのなかでこそ、物語を語り出すような写真。
見ようによっては、知り合い以外の人にとっては「工夫のないつまらない写真」と思うような、あの手の素人写真。
しかし、素人だからこそ、写せた写真、たづ子さんにしか写せなかった写真になっている。
ここには、全村の人びとが、大人も子どもも、いがみ合った人たちもみな映っているのだ。この人たちの笑顔は、誰もが家族のようによく知っている「たー」または「おばあちゃん」に向けた笑顔なのだ。
この笑顔の向こうにたくさんのともに暮らした年月があるのだ、ということを伝える写真にほかならない。


たづ子さんのとつとつとした語りは、写真と相俟って、叙事詩のようである。
読み続けるのが、見つめ続けるのがつらくなってしまう。
けれども、最後の最後まで、そして隅から隅までの膨大な写真を「あきらめ」という言葉に簡単に置き換えられるだろうか。
(半端なあきらめではない、ものすごい「あきらめ」があるのだと思う)
あるいは「あきらめ」ということは、抵抗以上の大きな大きな何かなんじゃないか、と思えてくる。


たづ子さんは椿の花が好きだ、と書かれていた。

>ツバキはな、こやってポロッと落ちてもな、下へ向いて笑っとるの。あんたたちゃ気がつかんかも知らんけど。ツバキはね、こやって下へ向いて笑っとる。みんなこんなふうにしてな、落ちても笑っとるの。
この本・・・いったいなんなのだろう。わたしはいったい何を受け取りつつあるのだろう。