『小さなユリと』 黒田三郎

詩集 小さなユリと

詩集 小さなユリと


昔、私の手を握っていた小さな手の感触を思いだす。
手をつなぎながら、幼稚園に行くのが嫌だと、泣きべそをかきながらとぼとぼ歩いていた子。
握っていた手を払うように降り切って駆けていった小さな後ろ姿。


それから、もっと昔、私自身が小さな手をもったこどもだったことを思いだす。
大きな手に、自分の手を預けて、半分引きずられるように歩きながら、ぼんやりと見ていた首に巻いた黄色い毛糸の襟巻の端っこ。


小さな手を握りながら歩く大きな人は、何を見ていただろう。何を考えていただろう。
小さな娘の傍らで。


 >いてはならないところにいるような
  こころのやましさ


黄色いマフラーを巻いた子どもだったころ、私は、つないだ手の先にある人の、黙り込んだ人の、胸にある悲しみや、やるせなさや、何か淀んだものを、感じていたような気がする。
そういう気持ちをぼんやりと、手のひらから受け取っていたのかもしれない。
受け取りながら、それをどうしようということもなくて、ただそういうものだ、と思いながら、受け取っていたような気がする。


そうしたら、大人になった私の手のひらにあった小さな手は、私から何を受け取っていたのだろう。
よく歌いながら歩いた。歩きながら、なぞなぞやしりとりをした。夢中でしゃべる子どもの声を聴くことが楽しかった。
でも、それだけではない。毎日、手をつないで歩く道には、黙り込んだ時間も、とんなにたくさんあっただろう。


森の上の美しい日没。ひっそりとしずかな住宅地の薄紫のアジサイの咲いている道。初夏の陽射しの中の女学校の水色の校舎。校庭でたいそうをしている少女たち。・・・
明るく透明な光景を眺めている心は決して明るくも透明でもない。
見つめる光景が美しければ美しいほど、開放的であれば開放的であるほど、静かであれば静かであるほど、空気のなかに、それとは別の胸の内がしみてくるようだ。


 >影
  美しい影
  醜いものの美しい影


醜いものの影がこんなに美しい。
醜いときの大人に寄り添う小さな子どもは、影のほうを覚えていたらいいのに、と思う。


小さなユリと。
客観的に見たって辛い時期じゃないか。弱音を吐いたっていいじゃないか。だけど・・・
小さなユリがけなげであればあるほど、無心であればあるほど、詩人のやりきれなさ、閉塞感は深い。
どうしようもない弱さを自嘲的に歌う人の見る美しい影にむかって、よいしょ、と子どもを抱きあげたくなる。