『ハラスのいた日々』 中野孝次

ハラスのいた日々 (文春文庫)

ハラスのいた日々 (文春文庫)


中野家に柴犬の子犬がやってきたのが1972年とのことだから、今から40年以上も前の話である。
当然、現在と当時と、ヒトとイヌをめぐる環境も、飼い方も、ずいぶんと違う。
当たり前のように書かれている周辺のことに対して、ぎょっとしたり、なんと羨ましいとため息をついたり・・・
一つの動作や、その始末についての常識までも、こんなに違うのか・・・
でも、ほんとうは、ついこのあいだまで、まったく普通に目の前にあったこと。
むしろ懐かしい、と感じるさまざまな光景の中で、それらが、今、なんて遠くなってしまったのだろう、と気がついて、今更に驚いてしまう。
そのうえで、著者夫婦と愛犬ハラスの日々に、深く共感したり感動したりしてしまうのは、どんなに周囲の様子が変わっても、時代が変わっても、決して変わらないものがあることを教えられるからだ。
数ページ読んでは、本を置き、足元に寝そべって居るわが犬をぎゅっと抱きしめたくなって困った。


お気に入りの椅子、
近所の人や犬たちとの交流、
散歩の折の胸おどる小さな出来事の積み重ねをほほえましく思う。
山や野に放たれ、「ふっとんでいく」犬の弾むような姿を思い浮かべ、羨ましいなあ、と思いながら読んでいた。
志賀高原の雪の中をかけまわり、山の犬たちとじゃれ合い、むつみ合う姿は、明るい光のなかの眩しい光景のようで、それが何だか神々しくさえ感じられた。
若犬の心弾む日々はあっというまに過ぎていく。
作者はこう書く。

>犬が人間にとって本当にかけ替えのないもの、生の同伴者といった存在になるのは、犬が老い始めてからだ。仔犬のころ、若犬のころはただそれだけで楽しい生きものだが、老いの徴候をいやおうなく見せだしたあと、彼はなにか悲しいほど切ない存在になる。
歳とともに、落ち着きを増し、人と犬とは歩調も息もあっていくようだ。
そして、次々につらい出来事を体験する。
失踪、事故、老い、病気、そして・・・
その都度の作者夫妻の苦悩、心痛は胸に迫る。けなげに耐え、生き抜いていこうとするハラスが愛しくてならなかった。けなげな姿に打たれた。何度も何度も。


犬は、不平を言わない。
いつの時代、どんな人間のもとで、どのような飼われ方をしようとも、あるがままを受け入れて、足りてくれて、ただ夢中で人を慕って呉れる。
その姿に打たれる。何か尊いものに触れたような気がして胸がいっぱいになってしまう。
そして、ときどき申し訳ないような気持ちになり、その大きな受け入れにわたしはすっぽり甘えてしまっている。
今、私のそばにいてくれる犬に、ただただ、ありがとう、と思う。