『あなたを選んでくれるもの』 ミランダ・ジュライ


毎週、郵便受けに届く『売ります』広告の無料小冊子『ペニー・セイバー』
ここに売主として広告を載せるのは、どんな人なのだろう。
本来の仕事(映画脚本)に行き詰った著者は、机の上のパソコンから離れて、『ペニー・セイバー』の売り主を一軒一軒訪問し、インタビューを試みる。動機はただ好奇心、現実逃避の気晴らしだった・・・


Lサイズの黒皮ジャケット。インドの衣装。大きなスーツケース。ウシガエルのおたまじゃくし。十冊もの写真アルバム(見ず知らずの人の写真の)。クリスマスカードの表紙部分のみ50枚。
売主たちの商品の一部をあげれば、こんな感じだ。
品名だけなら、特に気にかけることもないようなものもあるけれど、なかには、これが商品?(なぜこんなものを持っていて、しかも今売ろうと思うのか?)と思うようなへんてこなものまで、さまざまだ。
だけど、振り返ってみれば、どの商品にも、売主たちの生き方や思いが強烈に現れている。
そして、彼らに共通することとして、どの人も、パソコンを持って居ないか、持って居てもほとんど使わないということがおいおいわかってくる。


それにしても、なんというインタビューだろう。
それぞれのインタビュー後の著者の思いや総括(?)にハラハラしてしまう。
あけすけにそこまで言うのか。写真入りで・・・
著者は、インタビューした相手におもねった文章は書かない。安易に共感もしない。かなりしんらつに、彼(ら)を突き放している。残酷なほどだ。
ときには、インタビュー相手に「いやらしい優越感」を感じ、ときには、この相手と二度と再び会うことはないだろうことを喜ぶ。
しかし、しかし、である。
著者があからさまに、辛辣に評すれば評するほど、その相手の存在感はどんどん大きくなっていく。
彼らの人生のものすごいエネルギーに、どんどん圧倒されてくるのを感じる。
一方、万能なネットの世界の便利さや快適さ、無限と思える広がりが色あせてくる。パソコンを持たない彼らの前では、そういうものはなんの意味も持たないのだから。
たとえば、私がインターネットに出会ったのはわずか十数年前に過ぎない。それなのに、いつのまにか、箱の万能さにおぼれ、箱の外の世界が少しづつ遠くなって居たのかもしれない。気がつかないうちに、本当にいつのまにか。


著者は、ずっと感じていた。これから先の人生は小銭の寄せ集めのようになる、と。もしかしたら最初から小銭しかなかったのかもしれない、と。
波乱万丈は何もなく、小さく小さく生きてきた私に「小銭」という言葉は相当痛い。
人生は、小銭の集まりなのかもしれない。けれどもその小銭はどんな小銭なのか、ほんとうに「小銭」にすぎないのだろうか・・・
今まで、インターネットの外と中、という、人のグループの分け方など考えても見なかったように、考え方を変えれば、見方を変えれば(そのためには、大きなきっかけが必要だけれど)ありふれた小銭の他の面もみえてくるのかもしれない・・・
(他人の写真アルバムを大切に持っている人がいた。裕福な夫婦の退屈な写真ばかりのアルバム。むしろ、このアルバムを持って居る人のほうが語るに足る人生であるはずでは?
でも、今振り返ってみれば、このアルバムに張り付いたありきたりの笑顔のむこうには、それぞれ、いろいろなことがあったはずだ。他人にはわからないいろいろな表情、いろいろな景色。)


小銭のなかには無数の物語があることに、そして、その物語のひとつひとつが掛け替えがないことを知らされる出会いがある。
それは一見ごく平凡な出会い。平凡で、美しい出会い。
そのとき、自分の後ろを振り返り、前に広がっているものを眺め渡しながら、その豊かな土壌に、ああ、と思う。


あるインタビューの時、このインタビューには死が充満している、と著者は感じる。
でも、思えば、どのインタビューのなかにも少しずつ死は隠れているのだ。物を手放す(思い出を手放す)ということは、きっと死の方角から人生を眺めることでもあるのではないか、と思う。
この一冊の本。小銭をちゃらちゃら数えるような、砂を噛むようなところから始まり、やがて、読者の私自身にとっても、大切な物語に変わっていく。
感謝。