『犬』 クラフト・エヴィング商會(編)


阿部知二網野菊伊藤整川端康成幸田文志賀直哉、徳川無声、長谷川如是閑林芙美子クラフト・エヴィング商會を執筆者にした、犬をテーマにしたアンソロジーでした。


最後のクラフト・エヴィング商會による『ゆっくり犬の冒険』は、この本のあとがきのようなものでもあるのかな。
「この本に登場する昔の犬たちの・・・」のくだり、「・・・犬を取り囲む空気が・・・」のくだり、ほんとうに、そのとおり。犬の暮らしも犬を巡る周囲の空気も、今とは全く違う。
それを「距離を置く関係」という言葉で言い表したことに、なるほどなあ、と頷いています。
今の人間と犬の関係から考えたら、昭和前期の(この本で取り上げられた作品どれをとっても)犬と人の関係には、どきっとする場面も多いのだけれど、嫌な感じよりも、むしろおおらかな時代の空気をさばさばと嗅いでいる。
この空気感や、あたりまえさが、「距離を置く関係」ということなんだろうか、とも思う。
例えば、甘やかされ放題のうちの犬に比べて、この本の中の、ほぼ「駄犬」と呼ばれるべきジュジュもポチもチビも、あかも、クマも、厳しい暮らしをしているが、不幸とは思わない。
むしろどんな生活が犬にとってはより幸せなのだろう、とつくづくと考えてしまう。
長い長い人の営みの歴史の中で、社会は変わり、ヒトとともに暮らす動物たちの暮らしも否応なし変わってきたのだなあ、と思う。
そして、いつの時代も、どんな暮らしのなかでも、あるがままを全力で生きる動物たちをけなげ、と思う。


犬をめぐる12の物語。
といっても、各物語のなかで、「犬」の意味はさまざまだ。
犬を通して、その向こうに透けている何かを描写しようとしたもの。
犬を通して、自分自身を見つめようとしているのではないか、と思うもの。
自分が持て余している感情に、犬の姿を与えたのではないかと思うようなもの。
それから、自分とともに暮らした犬への思いを語るもの。
などなど・・・


赤毛の犬』(阿部知二)では、一頭の犬をめぐる子どもたちとその親たちの姿が描かれるが、その背後に、ちらつくなまめかしいものにドキドキする。
『犬たち』(網野菊)、『犬』(林芙美子)、犬たちの姿に、作者や主人公の孤独な心が浮かび上がるようだった。彼女たちの心が犬の形になったのか。ちっともかわいくない『犬たち』のあの犬が鮮やかに心に残る。
川端康成の犬についてのボヤキに似た言葉からはじまる『犬とわたし』(伊藤整)のあとに、川端康成本人による、まさにその犬たちのエッセイが続く構成は、なんだか愉快だなと思って、くすくすしている。


一番好きなのは、幸田文の『あか』
どうあっても懐かない、もと野良犬のあかと、飼い主となったア子ちゃんとの物語である。
血統のいい兄の犬と比べたらいかにもみすぼらしい、情けない様子の犬だった。
あかが、ア子ちゃんを飼い主として認める(?)きっかけとなった出来事を、私もア子ちゃんと一緒に息と詰めて見守る。
おもねらない懐き方ってあるんじゃないかな、と思ったり。
あかの孤高さを受け入れるア子ちゃんを、あかも受け入れただろうか。
あかを浪人と呼ぶ「おじさん」の言葉が好きだ。
(別の作家のエッセイで雑種犬が「駄犬」と呼ばれているのに抵抗があったので、この言葉が特に清々しく印象に残った)
そして、最後の四行が、とても好き。