『犬の人生』 マーク・ストランド

犬の人生 (中公文庫)

犬の人生 (中公文庫)


奇妙な短編集である。
死んだ父は「どこ」にいるのだろう。五人の妻たちの話は、何に繋がるのだろう。生前自分は犬であった、というのはどういうことなのだろう。ふいに椅子の上に現れた青年(?)はなんなのだろう。・・・
思わせぶりに始まった物語は、拍子抜けするほど何事も起こらず、どこにも繋がらずに終わってしまう。
物語は、意味がありそうで、何もなさそうで、たぶん何も、ない、のだ。


黒板のらくがきを思い浮かべる。
思いついたものやことがらを、意味も脈絡も考えず、思いつくままにどんどんかきだしていく。
そういうらくがきをちょっと離れたところから眺めているような感じがする。


または、クリスマスの電飾みたい。
はっとするほどに明瞭に浮かび上がった場面が、一瞬きらめいて、あっというまに消えてしまう、そういう瞬間に居合わせているみたい。


または、狂気かな、妄想かな、と思う。
でも、不安になったり、怖くなったり、ということはない。
どう感じていいのかということさえわからないで、戸惑ってしまっている。
一番近いのは…ちょっと変な気もするけれど「懐かしい」という感情なのだけれど――


不思議はすでに不思議ではなくなっている。突拍子もないことが起きても突拍子もない、なんて思わない。
それらが、いつのまにか平凡なことに思われてくるほどに、短い物語を読んでいる間に狎れてしまう。
そして、いろいろな感情を押し分けて、どこかから寄せてくる「懐かしい」はなんなのだろう。


犬だったのか、昔。犬だった君が見あげている大空を、わたしも知っているような気がするよ、いつか、そんなふうに私も見ていたような気がするよ。(『犬の人生』)


ハンドバッグに入ってしまうくらい小さな赤ちゃんの話をしていたはずなのに、そしてその続きの話もあるはずなのに、その話が終わったときに、心に残ることばといったら、一瞬の「騒がしく姿を現した鴎たちにふと注意を奪われる」というその光景だ。(『小さな赤ん坊』)


椅子の上にふいに姿を現した黒髪の青年。この青年がずっとほんとうは犬なのではないか、犬だったらいいのに、と思っていた。たくさんの緑色の単語がでてきたことも印象的で、この物語のイメージは緑色だ。(『ドロゴ』)


各短編、ほとんどの物語の主人公たちは、自分が、いつも「誰か」に見られているのを感じている。そうしながら、自分も実は相手を注視し続けている(たとえば『ザダール』)
そういう物語ばかりを続けて読んでいると、読者のわたしもまた、読みながら、物語のなかから「誰か」に見られているのを感じ始める。読んでいる私が、当然、登場人物たちを見ているはずなのに、逆なんじゃないか、と思い始めて、くらくらする。


で・・・ね・・・つまり・・・
なんなんでしょう、この本。