『エドワード・アーディゾーニ 若き日の自伝』 エドワード・アーディゾーニ

エドワード・アーディゾーニ―若き日の自伝

エドワード・アーディゾーニ―若き日の自伝


1900年、アーディゾーニは電報会社勤務の父の赴任先ベトナムのトンキン州で生まれた。
5歳のときに母に連れられて二人の妹とともに英国の祖母の元に渡る。
そのころからはじまって、大人になり、『チムとゆうかんな船長さん』の作者になるまでの、自伝である。
ほとんど各ページに配された(もちろん)アーディゾーニ本人によるふんだんな挿絵とともに読む自伝は、物語のようなおもしろさでした。


大英帝国の栄えた時代で、膨大な数の民間人が海外に赴任していた時代、子どもたちは、親の赴任地から本国イギリスの祖父母のもとに送られて養育されるのが普通だった。
そのため、子どもたちは、数年に一度しか親に会えない、という暮らしはめずらしくなかったのだそうです。(アーディゾーニの長女クリスチアナ・クレメンスのあとがきによる)


アーディゾーニの若い日、ことに寄宿学校時代に至るまでの幼い日々の物語は、アーディゾーニ自身の自伝というよりも、たぶん、この時代の(同じくらいの階級の)同じくらいの子どもたちに、きっと覚えのある物語だったのではないだろうか。
家のなかでは、大人たちに厳しくしつけられながらも、一歩外に出れば、どんな監督からも逃れて自由にとびまわることができた、おおらかな環境が羨ましくもある。
食卓に出されたゆでた野菜は食べられない少年が、野原に出れば、サンザシの葉や野生のスイバを摘んで食べ、ときには犬用ビスケットや家畜用固形飼料までおいしく食べたという件には、笑って、ぞっとして、そして「それは今の子ももしかしたら」と頷いているのであった。


強い子には、いつもいじめの標的にされ、教師たちにも人気がなく、人前では暗唱も計算もうまくやれず、ちっとも幸せではなかった、という学校時代思い出は、なんでもよくできました、という物語や、これだけは誰にも負けたことがなかった、という物語よりも、親近感がわく。


絵を描くようになったいきさつも、焦がれるような思いがあったわけではなかった、ということ。絵の師匠たち(の何人か)は必ずしも彼の絵を認めてはいなかったこと。彼の父は、彼が画家になったあとでもずっと息子が失敗して金を無心しにくるだろうと思っていたことなど。
それでも、アーディゾーニは画家として、ことに挿絵画家として、多くの人びとに愛され続けている、ということが、不思議で心強くもある。
何が才能で、何が成功なのかわからないけれど、チムのシリーズを大切に読みながら大きくなった子どもたちは(大昔、子どもだった私も含めて)世界中にいるのだし、ファージョンのたくさんの物語はアーディゾーニの絵と一緒にしか思いだせない。


一方で、戦時に、兵役に志願する、ということに、(この本だけではなく)私は少し不安な心地で、いちいち立ち止まる。
学校であれほどに辛い思いをして、学校が好きではなかったアーディゾーニは、軍隊など似会わない、自らすすんで不幸になりにいくのか、と私でさえ想像する。
それでも自ら志願するのだ。そうすることがあたりまえであったから。そして、不適格のレッテルのもとに兵役につくことができなかったことを屈辱的に語る。
そう思うように仕組まれた社会だったのだ、流れだったのだ、その流れに抗うことなど考えることさえできなかったのだ、ということを、この本でも確認し、どんよりと気持ちは沈む。