『駅前旅館』 井伏鱒二

駅前旅館 (新潮文庫)

駅前旅館 (新潮文庫)


東京のある町の駅前旅館の番頭が、自身の日常について語ります。
昭和三十年ごろの旅館の内側のこと、隠語のこと。彼が惹かれる女たちのこと。別の旅館の番頭仲間たちとの交流のこと。お客の事情など。
ちょっと前には間違いなくあった町の往来や、人の情などが、今は遠い過去の出来事のようだ。
過ぎて消えてしまった光景は、暗がりのなかにぼんやりとあかりがともったような姿で目の前に現れて、独特の雰囲気を感じる。
それぞれに、癖のある、でもやっぱり人がいい仲間たちとのやり取りを楽しむ。毒ももられているけれど、効きすぎるほどのこともない加減もよい。
ユーモア小説なのに、ちょいと寂しいのは、この時代には、この光景の何もかもが、当たり前に、作家にも読者にも等しく目の前にあったのだなあ、としみじみと感じていること。
駅前旅館とはどんなものか、と解説で池内紀さんが描写してみせてくれるが、そういう描写は本編にはない。駅前旅館、といえば、当時の読者のだれもがその佇まいを思い浮かべられたってことだね。
思い浮かべつつ、起こる事件や、景色、言葉の言い回しに、すっと乗って、紙面で作者と握手でもするように、ふふふと笑いながら読んでいたのだろう。
私は、遠いところにいるなあ、と思っている。


団体客に見る県ごとの気質の違い・旅先でのお金の使い方のことや、あちこちの店に置かれた「まねきねこ」について考えることなど、ほおおと思う。
県民の旅行時の金遣い傾向については、私の故郷の名も出てきて・・・(他人はともかく、私自身に限っていえば)あるなあ、60年後の今も、そういう傾向は、ある・・・と苦笑している。
それから、「女中」たちの身の上など、「わけあり」のつらい話なども出てくるけれど、それらは、さらり、からりと語りとばされる。その扱いのおかげで、女たちの健気さがしみいるのだけれど、振り返ってほじくったり、徒に動揺しては、必死に暮らしている彼女たちに申し訳ないような気がしてしまう。
楽しいのは、某ホテル番頭の「駄法螺」である。回りを巻き込んで、感心させて煙に巻く凝りに凝った法螺話に、思わず顔の筋肉がゆるむ。


読みながら、思い出すのは、子どものころのこと。
私は地方の小さな商店街で育った。子どもだちは路地から路地を駆け回って遊んだ。
そして、私たちの町にも、一軒、旅館があった。この本の中にでてくるあれこれの旅館より、ずっと規模は小さくて、たぶん民宿に近かったと思うけれど。
木の枠にガラスが嵌った引き戸は、たいてい閉まっていた。ガラス越しに外から見える、たくさんのスリッパが並んだ広い板敷などを思い出す。
旅館の脇の路地で遊ぶと、厨房から旅館独特の料理の匂いがした。私たちの家の台所のにおいとは全然違う、取り澄ました感じのおいしそうな匂いだったことなどを思い出す。